彼女と出会って、「13年以上前なのか…。もう、そんなになるのか。」と、ふと思った。
おそらく2004年の暮れに間近い頃だったろう…。15年以上も前なので、詳細は覚えていない。ただその時の、気分や動機は、感情としてはっきりニュアンスが残っている。
詳細は、確かに覚えていないのだが。すべての出来事が、まるで数日ほど前か何かのように強い印象として残っている。
この物語を披瀝する前に、
私自身の心情的な理解を深めていただく意味で、事前に申し上げておくと、私の母が他界したのは、1995年1月中旬のことだった。葬儀を終えて。まもなくして、阪神大震災が起きた年で、いろいろと印象的な年だった。
彼女と出会った頃は、母がガンで他界して、ほぼ十年になるころだった。それ以前は高齢化した母と、二人暮らしで。「早く良い人を見つけて、安心させてくれ」と、よく愚痴を聞いたものだった。私は、気のない返事で、そのやり取りをかわしていた。
私は、フリーの映像制作者で、
企業向けの作品や、ローカルのCMなどを年に数本以上を制作していた。 その関連で、PCとの出会いにも恵まれていた。いわゆるMacだった。
起動しただけで、直後にフリーズするような。そんなことがよくあった時代でも、
やはりPCが身近にあることは、自分にとっては、大きかった。
私は、映像世界に身を置いていることに不安があった。
なぜならその世界は、新陳代謝の激しい世界で加齢とともに、仕事を失う世界だということを周りを見て良く知っていたし、それは自分にも起きる例外のない事実だということを、嫌というほど感じていた。
事実、私が関わり合ってきた多くのスタッフも、フリーになって独立したり、会社を興したり、あるいは、消息が分からなくなったり、分裂に分裂を繰り返して、気づくと周りには知った顔の少ない。自分一人になっていることに気づかされるのだ。
そんなころから、PCの世界にはまっていた。自分を生かす道はこれしかないと、追い込まれて理解できるようになるのだ。ネットの世界には、独学で、突き進んだ。
時には、JAVAやPerlなどのプログラミング言語にも、少しばかり精通するようになった。
しかし、需要がない。
いや、当たり前だ。そうした仕事は、裏付けや実績のあるそれなりのネット時代にふさわしい新興の企業が、PCに精通したスタッフを大勢集めて、そちらに仕事が流れていくようになっていた。
至極、もっともな話だ。それまで、アナログな映像世界にいた独学の自分としても、とても大きな仕事をやれる自信などは、初(はな)からなかった。できない。
見よう見まねの独学では、太刀打ちできるはずがないのだ。
そんな自分の立ち位置は、充分理解していた。それでも、PCにすがるより、他ないと強く感じていた。
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