小さなテーブルには、
飲み放題のウィスキーと、水割りを作るための氷などが用意さている。
すでに私は、近くの居酒屋で、そこそこ飲んできている。
その勢いがないと、
なかなか一人で、シラフで店に入るには勇気もいるからだ。
この日も、やはり飲んできている。
それでも、今差し出された、薄い水割りに口を付ける。
すると、
「ビールイイデスカ?」と、彼女が飲むためのビールをおねだりしてくる。
正直、懐具合が、心配だが。「いいよ。」と応える。
「ダメ」と断る選択もあるにはあるが、それなら、こういう店には、
そもそも出入りすべきないし、来るべきではない。
無粋は、嫌われる。
むしろ「(アナタの)何か、飲み物は、いいの?」と、
こちらで話を差し向けてあげる優しさが必要だ。
後で述べるが、そこに気を遣ってあげるべきなのだ。
さらに畳み掛けるように、
小さなメニューを見せて「オツマミ、ドウシマスカ」とくる。
私自身は、どうしても懐具合から、注文に積極的にはなれない。
彼女から、おつまみを促されて、はじめて、一番安い乾きものを注文する。
例えば、ポテトチップスだ。
安いといっても、
竹のようなもで編んだ小さなカゴ状の入れ物に、少しばかりのスナック。
これで1000円だ。
懐具合もあるし決して無理する必要はないが、それでも、
この程度の注文はしたほうが、後々、受けはいい。
人にもよるが、だいたいこれは、安くあげるための1つのセットだ。
こういう店に出入りするようになって、次第にわかることだが。
言うまでもなく、この彼女らが飲むビールやちょっとした注文が、
微々たるものだが、彼女たちの売上力としてオーナーから計算される。
指名を受けることも当然そうだ。
日本人のこの手の店でも同様だが。
彼女たちとっては、店での売り上げには、必死なのだ。
なぜなら、毎晩、店が終わって掃除などを済ませると、オーナーが現れ、
売り上げの説教などが始まる。吊し上げを食う。
なぜなら、
フィリピーナである彼女たちとっては、日本人女性と条件が、
決定的に異なる点があるのだ。
売上げが低ければ、問答無用で、いきなりフィリピンに帰されるからだ。
その扱いは、かなり粗っぽい。
彼女たちは日本に来る前に、
現地でオーディションを受けたり、仲介のエージェントやら、
日本でのエージェントらに、それなりに金を払っている。
ほとんどは、借金して、ギリギリ半年働いて帰すつもりで。日本にやってくる。
半年、働いて、ある程度、そこそこまとまった金額を持って帰ることができるようだ。
それが、2-3週間程度で、フィリピンに帰されたら、
返すあてのないフィリピンでの借金が山のように残ることになる。
そうした追い込まれた状況が、彼女たちの明るさや笑顔の向こう側にある。
その彼女たちのストレスに忖度できないで、店にくる男たちはかなり多い。
初めて付いた彼女とわずかな会話をし、多少の情報をやり取りしているうちに、
急に、ショータイムが始まる。
「チョット、シツレイシマス。」と言って、キッチンの向こうに消えた。
私は、席に一人きりになる。
さっきまで、入り口付近の席にいた、まだ客のないフィリピーナたちも、
キッチンのある舞台裏に消える。
ステージが急に暗くなると、ちいママが大きな声で英語でマイクパフォーマンスが始まる。かなり手慣れたものだ。ポップ調の激しい曲が流れる。
すると、天井の照明が、点いたり消えたりミラーボールに反射した光が乱舞する。
大きな羽根のついた派手な衣装を着た女性2名がダンスを始める。
肩を露出させ、太ももがあらわになった、
スパンコール風の水着のような衣装を着た女性が、
大きなステージで、グルグル回り、激しく踊る。
衣装を変えて2ステージぐらい踊ると、今度は、ちいママが、店の女の子を紹介する。
ステージの奥の方から、1名ずつ名前が呼ばれると、笑顔を振りまき、お辞儀をする。
そうした女性たちが、十名近くステージのトップに、ラインで並び、紹介が終わると、
それぞれの席の客たちに、握手して回る。それは、かなり勢いのあるショーの醍醐味だ。
私は、このショータイムが、好きだった。
ショータイムが終わると、彼女も、再び席に戻ってきた。
今度は、「カラオケ ドウ デスカ」と、尋ねてくる。
1曲100円。複数枚つづりのチケットもある。
私は、もとより歌わないのだが。彼女が、「ウタッテイイデスカ?」
と聞いてくる。
拒む理由もないので、歌ってもらう。すると、
日本語が読めない字が出てくると、私を手招きして、舞台に上がれと催促し、
モニターの歌詞がなんて書いてあるか。私に、聞いてくる。
彼女のカラオケも終わり、席に着くと、
まもなく、ちいママが来て、「ジカンデス、エンチョウシマスカ」と、
催促にくる。ふとごろ具合を考えて、いや悩んで。
「じゃあ、後30分ね」
再び、ちいママがくるときは、店を出るしかない。
すでに懐が寂しくなっているからだ。