シショウと私は、数度、フィリピーナたちと、深夜のファミリーレストランへ行った。
店の近くの国道沿いに、と言っても、
徒歩でなく、タクシーで1メータちょっとぐらいの距離にあった。
記憶に強く残っているのは、「すかいらーく」だった。
彼女たちは、店に出る前に食事はしていないので。
どうしても、空腹なのだ。客に付かなった場合は特にそうで。
店が終わるまで、空腹なのだ。
客の少なくなった店で、彼女たちの楽しみの一つは、
ちょっと華やかな店で食事をすることなのだろうと思う。
事実、ファミレスでは、彼女たちが、とても延び延びとしている。
そして案外、ファミレスのシステムについて詳しい。
私などは、通常はファミレスにはいかない者にとっては、
むしろ、ドリンクのお替りなど、
彼女たちから、聞いたくらいだ。ということは、想像しているより、
案外、客とそういう店に行っているのだなと気づかされる。
フィリピーナたちと、ファミレスにいると、
とても楽しい。何よりも彼女らが、うれしいそうだからだ。
それが、なんとも幸せそのものと言った感じなので。
ここに、彼女らの国民性が非常によく出ている。明るく、楽しい人々。
フィリピンの言葉、タガログ語は、私は、ほとんどわからないが。
彼女から伝わってくる挨拶のニュアンスから、
食事がいかに大切かがわかる。
つまり、通常の「おやよう」や「今日は」の挨拶に付随して、
いや、「おはよう」「こんにちは」は、省くことがあっても。
まずは、
「ゴハン タベタ?」が、決まり文句のようにある。
タガログ語で、次のように言う。
「Kumain ka na?(クマイン・カナ?)」と挨拶する。
彼等、フィリピン人にとっては、まず、
挨拶する相手が、日々、食事がキチンと出来ているのかどうかを、
気遣うということで大切な意味を帯びているらしい。
あくまでも私見で言うのだが、
深読みすれば、食べられない状況をお互いに気遣うという意味で、
貧しさというものが、どこか潜在的にあるということでもある。
実際、祝い事や葬式などでは、ほぼ必ず、自分たちや親戚だけでなく、
その他の周囲の誰にでも、その場に現れた人までを無条件に巻き込んで、
春雨と野菜をベースにした食事(料理名は知らないが。私の彼女は”ヤキソバ”といって私に説明する。
だが日本人が思うようなヤキソバではない。多少、独特な癖のある味だ。)が振る舞われる。
こうしたことも、フィリピ-ナたちの明るさの意味には、
根深い伝統的な背景や慈悲の心が常に根底にあるということだと思える瞬間だ。