【フィリピン訪問記】ネガティブな幻想(水不足からの気づき) #19-0003

yorunosoko 現実について

ネガティブな思いはどこから来るのか

私は、このブログの最初のページに
「目の前の現実に対して、私は、いつも夢を見ているのだと思っている。」
と記した。この思いは、常にある。

その私の目の前にあるものは、もちろん物質化した現実であり、そのものの本質は、私自身から発せられている形而上学的な思考エネルギーによるネガティブな幻想だという思いだ。

前出のブログ「見ている風景」では、フィリピンで起きた今年3月以前から5月中旬まで起きた水不足を題材にして、ブログを書かせていただいた。

ネガティブな意識の気づき

ブログを書いているうちに気付いたことがある。このマニラで起きている長期の水不足は、日本でなく、あくまでもフィリピンのマニラで起きている水不足の実態なのだが。実は、私自身が私自身のネガティブな思いの中でフォーカスした現実の中だけで起きているのではないかという気づきのようなものがある。

そのネガティブな思いに呼応したものを、フィリピンにいる彼女から知らされて気付いた。このことは、ほとんど多くの日本人は知らない。私も彼女から聞くまでは、全く知らなかった。おそらく日本人でフィリピンの長期の水不足について知っていたものは、気象関係者やフィリピンに在留の者か、フィリピンに関りを持つそれに類する人たちだけだろう。

まず原則、多くの日本人は、無関心だったろう。ここに意味がある。つまり私が水不足のことを知ることになるのは、フィリピンの彼女と関りを持っているからだ。その中で、ネガティブな思いにフォーカスし話しているうちに、なんとなく、その事実を知ったのだ。別の言い方をすれば、引き寄せたのだ。

認識しない事は無い事と同一

今回のマニラの水不足の被害は、激震災害のような粗っぽく物質世界を根こそぎ崩壊させる結果を見せているわけではないので、各種マスコミも、当初はそんなに深刻に受け止めたりしないし関心もなかっただろう。ジワリと水不足が潜行し継続し、いよいよ深刻度の沸点に達したので、日本でも一部の新聞などが取り上げることとなった。

でも、その注目度は、日本のマスコミにとっては、一過性のトピックであり長くは続かない。他所事なのだ。多くの日本人にとっては、そもそも私のように、彼女がいま住んでいる国の出来事というわけでもないので、ほとんど関心がない。それは普通のことだ。

しかし、このことは一体、何を意味するだろう。重要な意味を含んでいるのだ。

それは、唯一、私たちがフォーカスしない事とは、意識が向かない事とは、何事も起きていない事と同一になるということなのだ。

何もない事。

つまり、日本人に限定するなら、この水不足の記事について知らなければ、無関心でいれば、何も起きていない。その事実すら無いことと同じなのだ。

あの奇妙な概念、量子の世界のシュレディンガーの猫の箱も同様で、猫が、箱の中で生きているか、死んでいるかの忖度は、箱自体の存在すら知らなければ、ましてや猫の生き死になどは、それすらどうでもいい話なのだ。私たちは、自分のもっとも強い関心の働くことの中で生きているのだ。

すべては、私の意識の中で起きている

ここまで何が言いたいのかといえば、私が、事業で立ちいかなくなり、そのネガティブな感情を持ち続けたことが、私の意識の在り方を低く押し下げ、そこから発生する私の感情に呼応し見合った結果として、一見、日本にいてまったく無関係な印象のマニラの水不足の現実と向き合うことになったということを述べている。

すべては、私の意識の中だけで起きている現実なのである。

このフィリピン・ブログが取り扱うことは学びの現実である

私たちは、偶然の出来事に生かされているのではなく、知らずのうちに選択だけを許された必然の中で生きている。その意味において、私たちの目の前に起こるリアルな出来事はすべて学びの意図が隠された必然なのである。私たちはそういうゲームの中で生きながら、一切、何も知らされずに、いわゆる無知な状態でゲームに参加させられている。

この現実という名のゲームはあまりに精緻でリアル過ぎる体感ゲームなので、ゲームだなどと疑いを差し挟むことも、抱くことも思いつけない。仮に疑問を持ったとしても、むしろそんな疑問持った自分が、やはり愚かすぎるのだと、そのリアルさをさらに上塗りするような事実や体験を仕掛けられてより一層、欺かれる。

私は、私自身の意識ではとても推し量りし得ない意図と私だけに課せらえれた事情をもって、フィリピンとの関りを持つようになった。ある意味それは、宿命だ。私は、彼女にそれをdestinyだと言ったこともある。その宿命にまず感謝し、私がリアルに体験・体感したことを記述し、あるいは知り得た様々な情報や知識などを紹介していこうと思う。時には分析も。

またフィリピンで起こり得た日常にありそうな体験を記述しつつも、このページのように、量子論的な入口の戯れ言(ざれごと)をある事実の中に見て記述することもあるだろう。いずれにせよ、私自身の基本姿勢を、ブログの当初において、記述しておきたかった。こんなこと書くことが、私自身の正気を疑われるかもしれない。それを承知の上で書いている。

☆フィリピンお役立ち情報・ひとくちメモ

フィリピンの二極性について!

私がフィリピンに興味を持った最大の理由は、フィリピンの持つ貧富の差の二極性にある。そして、私自身が混乱するのは、その二極性のどちらも、私にとって居心地がいいのだ。貧しい人々は、探さなくても、都市部のある地域を除いて、街全体でどこでも見受けることができる。そこの人々にあるのは、明るさと人懐っこい、優しい情だ。

建物全体が、よくて平屋で、平屋と平屋の間を埋め尽くすように、廃材で、無理に居住スペースにしているような地域もある。乱雑に張り巡らされた電線、どこからか溢れ出てくる水とその水たまり、そこかしこでみかける子どもたちの行水やそのあとの石鹸を流した水。散らかったゴミ。乱雑に干された洗濯物の様子。

数年前の選挙ポスターやサリサリに群がる子どもの姿。汚いどぶのような川、どう見ても汚物としか見えないものが浮いている川で遊ぶ、泳ぐ子ら。バスケットに興じる子ら。最近では、大ぴらにすることは禁じられているポーカーをする母親たちの集まり。大きく快活な笑い声。子どもの泣く声、トライシクルのバイクの上で寝る客待ち(仕事待ち)の男たち。唾を吐く音。などなど。

こうした貧しい人々の群れは、無秩序に見えるが、大きな括りでは、やはり貧しさの括りでまとまりを見せている。しかし、彼らは、温かい情に満ちている。好奇心に満ちている。お金になる仕事を欲しいと宛もなく、通りに出ている。この貧しさの一つの層に私の幼年時代がどこかダブってくる。そこか懐かしい。

一方で、豊かな人々を、見分けることは難しい。これらの人々は、高層のマンションや高級なコンドミニアムが集中するあたりに、慎ましくしている。貧しさが際立って、それに関連して犯罪も少なくないという中にあって、自らをわざわざ裕福だと見栄を張るものはいない。ひっそりさりげなく豊かさを楽しんでいる。だけに分かりずらい。

貧しさが一般的である街で、最近は、物価が上昇しているというが、それでも安く、しかも豊かに暮らせるというのは、魅力がある。マンションの中にジムがあったり、プールもある。一部の高層マンションからは、マニラが一望できる暮らしをする人々もいる。それは憧れが全面に出るような魅力的な生活だといえる。

付け足しで言うが、いま、私の矛盾する心の中には、その両方を受け入れる矛盾した気持ちが存在している。そのどっちつかずの曖昧な気持ちが貧しさを呼び込んでいるのかもしれない。

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