フィリピン・夢見ということについて #19-0001

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序・はじめに

目の前の現実に対して、私は、いつも夢を見ているのだと思っている。そんな思いを抱くようになったのは、2007-2008年頃からのことである。その頃の私は、ロシアのもと量子物理学者だという作家ヴァジム・ゼランドの著作「リアリティ・トランサーフィン 振り子の法則」の作品を夢中になって読み耽っていた。

私の目の前にあるのは、あまりにもリアルな現実で、しっかり見ることも、手に触れることも、しかも叩けば、どちらにも何らかの加害や痛みを生じたりもする。他にもいろんな働きかけに対し反応も返ってくる。その意味で、この物理的現実のリアルさを疑うこと自体が、正気の沙汰を問われるほど困難を伴うことだ。

さらにこの物理的な現実のリアルな世界においては、怒りに身を任せたり、耐えたり、喜びに打ち震えることもある。そうした喜怒哀楽の感情も体験し、もちろん人を愛し、愛されたりもする。どんな体験も可能な世界だ。

こうしたことがあって、なぜ、現実でなく夢だなどと私は戯れ言(ざれごと)のように言うことができるのか。あえて言えば、このリアルな現実をすべては幻想だと疑う人々が少なからずいるからである。この解釈に私は深い関心を持つだけで、量子物理学の研究者でもなんでもない。ただ影響を受け、その受け売りを根拠にしているに過ぎないと事前に申し上げておく。

その上でこの物理的現実は、どれほど用意周到に配慮されて緻密に創造された世界であっても、すべては夢見の世界の出来事だと信じている。言い方を変えればすべてはホログラムな世界で。仮想現実の世界の出来事だと確信している。私は、その根拠を探求しているものの一人だといえる。

そうした疑いが出てくれば来るほどむしろ反対に、自分自身の抱いた思いがとんでもない間違いであるかのように、より物理的な現実の流れと現れ方がリアルさを次々に示してくる。つまり、その疑いを持つことがどれほど愚かな事かをリアルさをもって示してくるのだ。あるいはどれほどバカげた妄想を抱いているかを思い知らされる痛い思いを体験する。

さらに言えば、なんでこんなに恵まれたありがたいことが起こるのかというようなうれしい、楽しいと思えるような出来事で、さらに惑わされるのだ。

ところで、
私のこうした一連の想いの始まりは、2005年の12月頃から起きた。

初めてのフィリピン

2005年12月13日 。初めてフィリピン旅行に出かけた。彼女と再会するためだった。彼女とは、日本で知り合ったフィリピンからの出稼ぎでやってきた女性で。後に、妻になる女性だ。ほぼ一週間程度の日程だった。

この間のことは、夢見ということでは、ある意味、私自身が、浦島太郎のようなものだったと言える。

夢見世界ということについて、私にとっての竜宮は、海の底ではなく、マニラからほぼ北の方向にPangasinanまでの、バスでおよそ5-6時間ほどの小さな田舎町にあった。その道中のワゴン車の中で見た夜の底の風景に、私は完全に魅了された。昼間見れば、ただの田園とさほど高くない凡庸な山脈が向こうにいつまでも続いているだけの風景だ。

現地の人からすれば、「じょーだんじゃねぇよ、クーヤ(兄ちゃん)。ここには、なんもねぇよ。ただ田んぼがあるだけでよ。オレたちのように退屈なだけさ。」と素っ気ない言葉が返ってくるだろう。それも極めてリアルな言い分だ。

とはいうものの、このどこまでも続くありふれた田んぼを両脇に突き抜ける国道は、夜は夜で、別な顔を見せる。フィリピンならではのデンジャラスな面を言えば、決して安全な道中ではなく、強盗が出る危険な道でもある。それでも、ロマンティックな側面としては、クリスマスを待つ人々の思いを帳(とばり)に包み込んで、甘美な美しさを漂わせているのだ。(それは後述しよう。)

ただ美しいだけでなく、幻想的なのだ。

このときから私はフィリピンにいわゆる俗っぽく言えば「ハマった」のだ。
そしてこの美しさへ故の感動とともに、その頃から、沸々と私の思いにあった物理的な現実世界についての考え方が劇的な変化を遂げ、その意味を考えるよう導かれた。

二元論としての覚醒

上述した「リアリティ・トランサーフィン 振り子の法則」の作品の影響もあって、私は、この物理的現実を私自身の肉体を主人公としたこのゲームに参加する二元論の片割れとしてみている。もう一方の私は、掴みどころのない意識世界の上部構造に位する形而上学上の存在だ。

3次元あるいは、4次元にいる私は、どっぷりこの物理的次元の世界に見事にはまっているので、その形而上学的な世界は、目に見えない世界としてだけ存在し、私自身の頭の中の私自身の思考のつぶやきによってしか、一方通行的な一見連絡の取りようのない世界にいる。

それは決して表立った返事も返さない。善悪の判断も示さない。ただ私自身は、私自身の思考の何らかの反映を知らずのうちに体験させられるのだ。

このブログが目指すもの

とりとめもなく、このブログがはじまってしまった。とはいえ、私自身の思いは、上記の部分を別にして語ることはできない。その思いを引きずりつつも、このブログでは、量子論的な概念にやや触れながら、その視点は常に持ち、さらに、物理次元のフィリピンの美しさやそこに住む人の情緒、思い、感情、私が知り得たフィリピンのちょっとした雑多な事や常に変わりゆく”リアルないま”などについて、物理的現実世界での体験を織り交ぜて記述していこうと思う。

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