「マーフィー 奇跡を起こす魔法の言葉」(植西 聰[著] PHP文庫)
の本の表紙カバーの内側に
「あなたはできないのではない。できないと錯覚しているだけのことなのだ。」
という本の中の項目にもなっている言葉が、抽出され書き出されている。
私たちの誰もが、
この言葉が、示すその通りなのだろう。有難い。勇気の出る言葉だ。
その「できないと錯覚しているだけ」の私たちは、時折、自分都合で、神を引き合いに出すものだ。これまでの私もそうだった。
そして、その時の心境は、自分のご都合主義で呼び出したという後ろめたさもあってか神の力について、ほとんど信用していなかったりする。そもそも、神様自体が、実はいないと思ってたりもする。
朗報がある。実は、神様はいるのだ。 一切、何んら条件を求めない。ただ受け入れるだけの存在で、私たちの願望実現に力を尽くしてくれる存在がいるのだ。
といって、すでに数日前にも言っており、重複に重複を重ねるようなものだが、それでも言っておこう。
私は、どこかの宗教団体にもそれに類する一切のものに、全く関係していない。
この場で、加担するつもりもないこと。当然、布教活動などにもまったく興味もない。
このことだけは、いつもはっきりさせておこう。ネットであらぬ誤解をされても困るので。
で、
私の言う神は、擬人化した神ではなく潜在意識のことであり、同じことだが、潜在意識を窓口とした宇宙に存在する支配的な法則そのものを指して言っている。と、改めて強調して述べておきたい。
ついでながら言うと、
私の現在の心境としては、ある意味、分かりやすく捉える意味で、潜在意識の活動を擬人化して考えてもいいものだとも思っている。
つまり、神とは、潜在意識のことであり、潜在意識を窓口にした宇宙そのものということだ。
ということは、
私たちが、自分都合で、一時的に自分のイメージで創り上げた神に依頼するということは、
実は、私たちは、宇宙そのものの法則に「神頼み」を依頼していることと同義なのだ。
前述した本の後半の方の項目に次のようなものがある。
《祈ることで潜在意識に全幅の信頼を寄せれば、奇跡が起こりやすくなる。 p254》
この本の中で、著者は、
「マーフィーは『神という言葉に抵抗を感じる人は、それを潜在意識という
言葉に置き換えなさい』という」
(「マーフィー 奇跡を起こす魔法の言葉」植西 聰[著]PHP文庫より引用)
と述べて、さらに
「『祈りとは、とりもなおさず、想念のことを意味する』」
(「マーフィー 奇跡を起こす魔法の言葉」植西 聰[著]PHP文庫より引用)
と、牧師であったマーフィー博士の言葉を紹介し、
当ブログで、冒頭述べたことへの内容をさらに厚みを増して補ってくれてもいる。
ここで、引用した分について、このタイミングで強調をしておきたいのは、
「祈りは、想念」なのだということだ。
この植西氏は、さらに続ける。
「『神に祈れば、奇跡が起きるようになる』という言葉は、本書でこれまで述べてきた
『潜在意識に』想念をインプットすれば、思いがけない方法で願望がかなうように
なるという心の法則を意味しているのである。」
(「マーフィー 奇跡を起こす魔法の言葉」植西 聰[著]PHP文庫 p254より引用)
著者として示唆がある。
私は、この言葉に支持させていただく立場だが、
その上で、あえて言えば、
信仰の薄い、イイ加減さをともなった「神頼み」の行為は、実は、無駄じゃないと思っている。
神(潜在意識)にとっては、願いを託している者の神への忠誠や信仰が度合いが自分都合で、不純だったとしても、それを問うことはない。単に、『潜在意識に』の想念に願いのインプットが届いたかどうかが、重要ななのだ。
不埒な、その場限りの「神頼み」でも、条件がうまく整い、願いが潜在意識にインプットされれば、それは、現実化する。
神(潜在意識)は、決して、願いを持ち込む主体の真面目な動機かどうかには、そもそも関心がないし、善悪の判断もしない。インプットされたものを、原因として、結果を物理的現実に返すのみだ。ただし「神頼み」が、
所詮「神頼み」になって、充分な結果が出せないことが多いのも事実だ。
その理由としては、
望んでいた願いが案に想定したとおりに結果を出せず、フライングすることがあれば、
それは、一時的な「神頼み」のイイ加減さにあるのではなく、「神頼み」する自らの思いが、イイ加減であることを心の深い部分で認めているための結果なのだ。
自分の願いが、
もし「かなったら良いのだけど…な」という程度の気持ちのまま、
その意識をバックグランドとして持っていたりする場合、つまり、
そこに、意識がフォーカスしていれば、
現実化されるのは、
「(願いが)かなったら良いのだけど…」というそのものの思いにの状態が、
ただ現実化するのだ。
願望が適う一歩手前の状態がいつまでも続き現実化してしまうということなのだ。