私は、野心を持っている。
誇りを持って、もう一度言おう。
私は、成功者としての自己実現を図るための野心を持っている。
度々、眼にすることだが、先日の光景はさすがに驚いた。
羽田空港のロビーでのことだ。
到着出口の待合は、いつでもどんなときでも人で溢れている。バゲージもそこかしこにある。
人が居れば、それなりの時間を過ごすことのできる喫茶や食時などの豊かさを象徴する華やかな施設があり、それ以外の人のためのリラックスできる椅子も用意されている。
ある通路を歩いたときのことだ。
壁際に数人が横並びできるソファー用の椅子が、縦の順で7-8脚用意されていた。
その横をすり抜けたときだ。
まだ数人が座れる余裕はあったが、一見、すわりにくい状態なので、
その意味では満杯だ。
私が驚いたのは、どこでも誰でも眼にする光景ではあるが、
ほぼ全員が、携帯やノート端末に向かっていたことだ。
その椅子の3人連れのひと組みだけ、皆と違っていた。
初老と言える年配の夫婦とその縁者の組みだけだった。
時間が過ぎていくのを、ただ待つ。奥さんらしき人のその顔が退屈さと
虚空を見つめるながら何やらブツブツ言う様を見て、
いかばかりかの不安が同居しているように見えた。
あくまでも私の穿った見方だと思うが印象的だった。
その3人連れを除いて、
皆がみな同じことをしていた。
ある行為に対して、その一部分の現象から、価値の度合いを斟酌せずに、
単に有意義であるか、無いかを一応に言う配慮の欠けた指摘を嫌う傾向があるが、
私は、そんな配慮は一切せずにあえてはっきり言おう。
若い男女たちが。
皆がみな同じことをしている。
私は、「ザ・ストレンジスト・シークレット」(アール・ナイチンゲール著 林 陽:訳 徳間書店 本文より引用p17)のフレーズを思い出していた。
「それは理由もわからず、自分がどこに行こうとしているかもわからずに、
まわりと同じ行動を取るということです。」
皆と同じことをしているというのは、
成功できない人々の特徴である。
「成功しない95パーセントの誤った仲間(人々)たちと
同じことをしているからです。」
( 「ザ・ストレンジスト・シークレット」アール・ナイチンゲール著
林 陽:訳 徳間書店 本文より引用 p18)
”成功しない95パーセント”という表現は、こうも置き換えられる。
成功できない。あるいは成功していない人々という意味だ。
成功していない人々と同じことをしてどうするのだ。という意味を含んでいる。
私は、携帯することが悪い。PCに向き合うことが悪いなどというつもりは絶対にない。
だが、”皆がみな同じことをしている”ようなことをあえてする気には絶対にならない。
なぜなら、私は、野心を持っているから。
「イイじゃないか。個人の自由だ。勝手じゃないか。」と批判されるだろうが、
もしプライドがあるなら、
少なくとも、人と同じことをしている風景の一要素にはなるべきではない。
皆と同じことをすることは、個性の抹殺である。
資本主義の社会は、他と同じものは、絶対に高く売れないのだから。
私は、あれこれの行為よりも、心の姿勢を問うている。
ジェフ・ケラーは心の姿勢について、
著作「いつもうまくいく人の成功法則」(弓場 隆訳 ソフトバンク文庫 本文より引用 p36)で、次のように述べている。
「たとえ最悪な状況下でも、あなたには、自分の心の姿勢を選らぶ力がある。」
携帯やノート端末に向かえるような状況は、ありがたいことに平穏そのものだ。
とてもこの本が想定している”最悪な状況”からはあまりにも程遠い距離にある。
極めて恵まれた環境だ。
この本の言葉の重みの比較に耐えられない日常の話だが、
それでもあえて言う。
”皆と同じことしている”の無感覚で居られるその無神経さは、
ある意味もっと深刻だと私は思う。