夢見心地☆cut in / cut out(フラッシュ・バック) ★19#0110

夕闇 フィリピン-ピリピン

ここ数日、私の心の中で何かしらモヤモヤしているものがある。
それは、私たちの物理的現実が「鏡」であるということについてだ。
その認識により、何かが、掴めそうでいながら、それでいて全くそうはならない。

一歩、何かに近づいたように思えながら、
実は、却って遠くに離れたみたいな感覚というものすらある。
として、
いま、急に「何か」が分かるということはないだろう…。

それにしても、せめて何かの破片(欠片)を見出したいと思っている。そのあたりで、なぜかアンドレイ・タルコフスキー監督の「鏡」という映画が、私の心の中で、ザワザワと、微妙にかすかなシグナルを発信しているのだ。

今回は、そのことについて、少し触れておきたい。

実は、この映画は、あまりに難解すぎて、私自身は、ほぼ理解できていない。
なのに、執拗にこの映画の不思議さとけだるさと美しさに惹かれるのだ。

この映画は、20年以上も前に、地下鉄神田駅出口の付近の岩波ホールにて上映された。
かなり前の話だ。
私は、上映期間中に、この映画を3回も観た。
然るに、ただ不思議なラストシーンに魅せられたのみで混乱し、何も分からなかった。

映像は、怪しいほどに奇異で、それでいて美しい。
その繊細さが、いまなお映画の意味を知りたいという衝動を焚きつけている。

すでに20年以上が経って、いまなお内容が分からないまま、それでも気になる映画になっているのだ。解説によれば、タルコフスキー監督の自伝的叙事詩的な映像作品ということだけは知識を得た。

そして、特に難解なのは、「私」という主人公を通して、現実と過去と未来が、1シーンの映像に同居するエンディングに私は、ずっと縛られてしまったのだ。あまりにシュール過ぎて。

結果として、私は、この映画に非常に強い興味を持った。持たされた。この頃、学びつつあったニューソート思想と呼ばれる人たちのスピリチュアルな次元での概念とも、この映画は、多少、関わっていたのかもしれない。

そうした要素により、私は、まるでそうなることを設えられたように、
形而上学的な領域において、この映画に惹かれ、導かれていったのだろうと思う。

タルコフスキー監督の映画「鏡」については、私は、大いに気になりながら、何も分からないでいる。月日は流れ、結局、今日では、ストーリーさえ、全く覚えていない。
というより、映画自体は、これがあらすじですというようなものはなく、すべてが断片的で、固より、ストーリーと呼べるような構成にはなっていない。

タルコフスキー監督の独特な映画の世界観の中で、ふとしたある気づきを、
以下に記述してみたい。

アンドレイ・タルコフスキー監督は、「惑星ソラリス」でも語っているように、潜在意識について、深い洞察を持っていたと思われる。

「惑星ソラリス」作品の傾向としては、現実は、潜在意識の記憶(記録)を具現化するという意味を示唆しているように思う。映画はSFなのに、まるで難解な哲学映画を見せられたようなその象徴的な作品といえるだろう。

それは、
同氏の作品「鏡」のエンディングにあるように、
現実と過去と未来が、1シーンの映像に同居するという手法を採っていることからも、ニューソート思想家たちのスピリチュアルな概念と通じるものがあったのかもしれない。

私は、この少し前に、「ある気づき」ということを書いた。
それが、何んであるかを言うタイミングが来たので、書いておきたい。
私たちの物理的現実は、cut in / cut out だということなのだ。

このcut in / cut out とは、簡単に説明すると。

これは、映像制作における編集上の手法の用語のひとつだ。
ある作品の映像の流れがあるとする。それをAのストーリーとしよう。

そこに映像ディレクターとしての思いを詰め込むつもりで、
Aという流れの場面に、いきなり瞬間的に短い映像を象徴的にE(Bでも、Cでも、Dでもなく、E)をインサートする場合をいう。
多くの場合、フラッシュバック、またはカットバックという言い方もする。

わかりやすい言い方をすれば、一例にすぎないが。
狙いで、Aのストーリーにいた主人公の何か別のシーンの回想を意図してcut in / cut outしたりする。ほんの1秒未満だったり、数コマだったり、もう少し長いばあいもある。
cut in / cut outによりその効果で、主人公が何を思っているかの心情を表現出来る場合があるのだ。

映画の作り手、特に、映像作家の表現(説明)のための手法のようなものだ。
このcut in / cut outは、必ずしも、こうした場合だけないので、
あくまでも一例としてあげている。

とにかく、ある流れの中で、別な要素を入れたい時に、cut in / cut outさせるというのだ。
そのインサートのあとは、すぐに、もとの流れに戻る。

それが繰り返し行われて、ますます映画としての意味を持たせる場合もある。
少し、専門的なことなので、分かりにくいかもしれないが、お許しを願いたい。

このタルコフスキー作品の「鏡」や「惑星ソラリス」の映画を通して感じた
私の気づきは、cut in / cut outによって、私が何を理解したか…。

私たちが感じているう物理的現実による人生は、大筋で、cut in / cut outだということだ。

どういうことか。ここからは分かりやすくなるだろう。

私たちは、毎日を連続した時間を暮らしていると思っている。単純に言えば、今日は、昨日の続き。明日は、今日の続きのように。
まるで、ひとつの直線の流れがあるように感じている。たとえば、学生ならば、学校という環境での生活シーンだったり、職場なら、そこでの一日の過ごし方だったりする。

家というものを機軸に、当たり前のように、過ごしている。
毎日が、何の変化さえないように錯覚している。

それは、すべて習慣化されたことによる無意識に観ている夢見であり幻想なのだ。
まるで、
私たちは観客のように。無意識にそれを観ている。

しかし、私たちの無意識で観ている夢は、cut in / cut outの連続であることを私は理解した。現実は、毎日、続いているように観えて、続いていなんかいない。

ときにcut in / cut outによって、そのあらたに生まれた場面の流れにのってしまうことさえあるようだ。

これは、見方を変えると、パラレルな現実への移行を意味している。

私は、タルコフスキー監督の「鏡」について、何も語れないほど、よく分からなかった。
もっともこのブログは、映画時評のサイトでもないので、まっ、ちょうどいいが。

ついでながら、言っておくと、この映画「鏡」については、分からなくて、良くて、
人生は、所詮、断片的であって良いといっているように思えた。

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