当ブログは、概ねフィリピンのことをテーマにあるいは念頭にしたものとなっている。ただしそれでこのブログをはじめようとした私の意図が達成されているわけではない。
フィリピンは、どちらかといえば、私がいわゆる「現実(物理的現実)」に対する認識を持ち始めたときの動機のひとつであって、私の最大の関心事は、いつも現実認識に対する「夢見」ということへのフォーカスとアプローチにある。
そこで、トップページは、「フィリピンへの訪問記とあれこれ」「フィリピン・運命を変えた出会い篇」「夢見について」とさせていただいた。先の2つのテーマと「夢見について」は、一見、別のもののように思えるかもしれないが、私自身においては、3つのテーマは、相互に密接に深く関係しあっている。
なぜなら、
フィリピンを知るきっかけになった訪問や彼女の存在との関わりがなければ、
夢見についてということについて、
現在のような考え方をしなかったのかもしれないと思うからである。
「夢見」あるいは「夢見空間」という言葉があり、この「夢見」の概念は、ロシアの元量子物理学者だという作家ヴァジム・ゼランドの著作「リアリティ・トランサーフィン 振り子の法則」の作品のシリーズの中で、特に、第2巻から頻繁に登場させている概念だ。
この夢見とは、
私たちが日々何らかの事象にフォーカスし選択し、意識や思考エネルギーを働かせた結果として体験するにいたったあるいは投影された物理的な現実に向き合う私たちの態度を意味する。加えてその「夢見」がそもそも何であるかについて、まだ目覚めていない状態を意味している。
先に掲出した作品の影響を強く受けた私は、好んでこの言葉を使わせていただいている。
そして、この作品を無我夢中になって読んだ時期と、フィリピンという舞台装置が、私の様々な思考の解釈や展開に相乗的な関わりをもつようになった。
ただし、3つのテーマに限定したものではなく、今後、必要に応じて、さらに増えるだろう。その際、それぞれのテーマが、別のものではなく、相互に関わっているものとして理解していただけたらありがたい。
1番目と2番目の話は、概ね、目覚め切れていない夢見状態そのものの俗っぽい話に終始している。言い方を変えれば、安っぽいドラマだ。しかし、話の進行状態で、「夢見ということ」に関連した突っ込んだ部分の解釈を加えることもあるだろうと思っている。3番目は、かなり抽象的な思考の自由な展開をしていけるだろうと思う。
私は、この3番目のテーマを始めるにあたって、抽象的な思考に寄り添っているということを申し上げておく。その話は、私たちが「夢見という状態にある」ということに、一切の疑念を持たなければ、飛んでもなく馬鹿げた話となるだろう。
なので、そうした抽象的な思考に「余裕」あるいは「遊び」が持てない方は、それは、それで、皮肉ではなしに幸せでこの上ない方だろうと思うので、そういう方は、この3番目は、読むのは時間の無駄かもしれない。一笑に伏していただいて結構だ。
私たちを取り巻く物理的現実は、すべて私たち自身の意識が投影された幻想である。
これが、3番目の基本的な考え方としてある。私たちは、5感で認識できることは、リアル現実として受け入れられるようにできている。だが、5感でスルーした世界こそ、実は私たちの本質が見えないカタチで在り、それは文字通り、目に見えない世界のことで。5感で、認識した世界、つまり物理的な現実は、実は、幻想なのだということだ。そこを探っていきたいと思っている。