この暑い季節、様々な虫が、居住区の廊下などに、裏返っている。
小学生たちが、登校している姿を見かけて、
夏休み中なのに、やけに今日は登校する子どもたちが多いなと思った。
実は、夏休みに1-2度ある登校日と勘違いしていていたのだ。
ふと思えば、今日は9月だった。
そうか。夏休みが終わったのか…と。寝ぼけたことを考えていた。
とはいえ、今日はむし暑い一日だ。ふと廊下を見ると、コガネムシが、
転がっている。息がないのかと、足で、探ってみると、手足をバタつかせる。
鞄から、硬い紙を出して、そのコガネムシをすくって、緑の多い方へ放り出した。
すると、急に羽をバタつかせて、どこかへ消えた。
コガネムシについてだが、いつだったか。こんなことがあった。
私の住んでいる居住区の路地を歩いていた昼下がりの頃、ふと、大きな虫が飛んで来た。
私の周りを、バタバタと飛んでいる。金色のコガネムシだった。
カラダの割に小さな羽根を羽ばたいて、
その重いカラダをやっと中空に浮かせているような、それ以上の表現が見つからないほど、
あまりにも惨めなくらい必死に飛んでいる。むしろ中空にある見えない紐に支えられながら、
ぶら下がっているという風情だった。
私は、私で、ゴールドのコガネムシに出合ったことで、ゲンを担いだ。
何か、お金にまつわる良いことの吉兆かと。(それは後で、全く期待はずれだったことがわかるが。)
と同時に、今、このタイミングで、
その時、たまたま気になったことをあえて書いてみようと思ったことがある。
そのときのコガネムシの姿は、私にある意味深なものを投げかけてきたからだ。
以下は、もちろん私自身の稚拙な夢想だと、思っていただいて結構だが…。
私の疑問は、
なぜ、あんな脆弱な羽根で、飛べるのだろう?だった。
比較的、コガネムシのカラダは、巨漢だ。
人間に例えるなら、数百キロの体重があるデブが、
襖2枚を羽根を見た立てて、飛んでいるというニュアンスが、極めて近い。
件のコガネムシについていえば、
羽根は、カラダの3分の2程度をやや上回っている程度でしかない。
その羽根は、飛ぶということ考えた場合、私の印象から言えば、あまりに小ぶりだ。
なのに、飛んでいる。
「何で飛べるのか!」と、金属の飛行機が飛ぶのを見るくらいに不思議だ。
そう、ツッコミたいところだった。
飛んでいると評価するには、お世辞にも、美しくないし、何せ、必死すぎる。
惨めでさえある。
しかし、彼は、飛んでいる。やっとの事で。
私は、今にも落ちそうなコガネムシの飛ぶ姿を見ながら、
その意味を考えた。
実は、コガネムシは、羽根があるから飛べるのではないのだと…。
もちろん、物理的要素としては、不可欠で必要だが。
彼は、飛べることを疑ったことがないから、だから飛べるのだと。
もし彼が、意識的に、それを一度でも疑えば、彼は二度と飛ぶことはできないのではないかと。
そう思うと、
同じように、鳥やおよそ他の飛ぶことのできる生き物のことを考えた場合、
確かに立派な羽根を持っているし、一見、飛ぶことが当たり前のように、納得できるのだが。
それは、私たちの意識の中で、ただ、それを承認しているだけなのではないかと、
そんな気持ちになる。
飛んでいて、何の不思議もないような立派な鳥たちのその姿を見ていると、
案外、あんな羽根のはばたきで、よく飛べるものだと、物理的にそう思えてくる。
単に身体の構造や、羽根の物理的作用のみで、飛べるのだと考えると、少しずつ、奇異に映ってくる。
確かに、それらは最低限必要な要素としてあるのだろう。
だが、
やはり飛ぶものたち、
すなわち生き物たちの一切の疑いの入る余地がないほどの「思い込み」が、
絶対不可欠なのではないだろうかと思えてくる。
それは、別な言い方をすれば、天井を這う虫についても同じことが言える。
身体が軽いから、天井を這うことができるとするなら、
すべての小さな軽いゴミは、天井に貼りついていて不思議ではないはずだ。
だが、実際には、チリと呼ぶような存在の軽い物質も、やがては重力の作用を受けて、
逆さになって、天井を這う。
ここにも、落ちるはずがないという生き物たちの決定的な思い込みがなくては、ならないのだろうと思う。
そして、私たちは、私たちで、形而上学的な意識レベルでそれを承認している。
私たちは、何を見ているのだろうか…。
私たちが、創りだした意識のシナリオを、瞬間、瞬間で、観客となり、シフトし、
承認しているということなのだろうと思った。
私は、虫たちや鳥たちに、飛んだり、天井に貼りついたりというその能力についての体験を、
私の意識の深いところで、創りだし、受け入れているから、すべては起きているのだと。
コガネムシのフライトで、そう感じぜずには、居られなかった。