夢見心地☆面当てのように ★19#0164 

フィリピン 出会い2 フィリピン-ピリピン

この数日、「面当てのように」という言葉を、私の自嘲とリアリティを思いながら心の中で、
何度も反芻している。

この「面当てのように」の表現、トランサーフィンの中に度々出てくる言葉だ。
我々日本人には、どこかグサリと来ないだろうか。私には、なぜか響くのだ。
理由は、分からない。

トランサーフィンは、ロシアの元量子物理学者だという経歴のヴァジム・ゼランド氏の著書シリーズで、「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」をはじめとする日本語訳は現時点で全4巻シリーズあり、ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店刊で日本語訳された中にある言葉の一つ。
少なくとも、トランサーフィンの著作に触れた人の多くは、この「面当てのように」の言葉に、
一度は、引っ掛かり、そして呑み込まれたのではないだろうか。
とても印象的だ。

きっと、この翻訳は、須貝 正浩氏の絶妙(ご本人もかなりご満悦)な翻訳のひとつなのではないだろうか。いわば、マーキング!「オレが仕事したぞ」という、そんな意気込みを感じているのではないだろうか…。

それにもまして、そういう翻訳がしたくなるような、当該、原文は、恐らくロシア文学的独特の色合いと特異な言い回しがこのトランサーフィンにはあるのだうなと思った。

一つ一つを、悉く覚えてはいないが(ある意味、そちらに気を取られてはいけないと思ったので、注意を向けなかったが)、そうした印象を受ける箇所が、このトランサーフィンには、随所にあったように思う。

まるで、学生時代に読んだドストエフスキー作品を読むようなあの文学臭と印象さえ持った。
かつて、私が、ドストエフスキー作品に傾注したのは、その作品性にあることは、もちろん間違いないが、それを後押しした独特の翻訳にもあった。

特に、米川正夫氏の翻訳には、一度は陶酔した時期もあるだけに、
この「面当てのように」の表現を読んだとき、ふとあの頃が懐かしく思い出された。

トランサーフィンに見られる奇妙な言い回しは、あえて言えば”ロシア文学臭”により、一方で、トランサーフィンの概念の魅力と説得力を大いに引き上げているのだと私は強く思う。
そしてわかりやすくしているのだ。

特に、この「面当てのように」の表現が私は好きで、将来的な意味で、きっと影響を受けていると思う。心深くに刻み込まれていると思っている。

その「面当てのように」が使われている象徴的なメッセージを以下に引用しよう。
トランサーフィンシリーズの第4巻だ。

 「その一方で、しばらくの間、あなたの世界の層では何の変化も見られないことを
覚悟しておいて欲しい。あるいは、反対に、まるで面当てのように、ありとあらゆる
不快な出来事が起こるだろう。一体どうしたというのか。それはすべてのリアリティ
  との接し方の新たなレベルへの『移動』と関係した不具合なのである。」
 (「トランサーフィン鏡の『超』法則 リンゴが空へと落下する―奇跡の願望実現法」
   ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)

これは、私たちが願望実現のためにスライド(イメージング)を実行する過程で、私たちがいま望まない現実の人生ライン居続けている状態からより望ましい現実の人生ラインにシフトするときに、そのタールのように粘性を帯びたリアリティのシフトが、ゆっくり現実化する一プロセスの特徴的な傾向について記述したものだ。

いま、目の前にしている鏡の現実に対して、不満を持ってはいけないことを示唆している件(くだり)だ。事実、続けてゼランド氏は、次のように警告する。

   「ご承知のように、鏡(=リアリティ)は遅れて働くのである。何があっても、
    自分の考えを貫かなくてはならない。何も起こらないうちは、穏やかな
    気持ちで一休みしよう。」
(前出「トランサーフィン鏡の『超』法則」:p204)

と述べている。

私が、「面当てのように」の言葉を、冒頭、反芻していると書いた。
これは、私にとっては、
ある種、舌打ちするようにである。

数年前のあるとき、何となく、私の身の回りにそれ(シフトの兆候)と気づく微妙な変化を感じていたことがある。
その一例が、かつて私が、辞めたいと心から願っていたバイトをいわゆる”穏便”に辞める機会を得たことが頭に浮かぶ。

それは、今日にも辞めたいけど、口に出せない。なぜなら、いま辞めれば、即、経済的な悪化状況に押しつぶされることが、わかっていただけに。我慢して職場に向かっていたそんな時だった。ところが以心伝心なのか。雇用側が、かなり理不尽な口実を設けて私に解雇を宣言した。否、解雇ではなく。到底受け入れられない条件の職場への移動を命じてきたのだ。

辞めさせたいという意向がはっきりわかるような形で。
この話は、詳細を論じる意味もなく不毛なので、省かせていただく。

ただこちらからでなく、相手側からの申し出で辞めることになった。そんな状況が生まれたという理解で充分だ。しかも、私は、相手の申し出なので、多少の条件を付けさせていただき、多少ながら願ってもない形で有利に辞めることができたということなのだ。

それは、まるでそう誂えたかのように、正しくそのとおりになった。それを私は喜んでいる。
つまり、辞めたいと思っていた。だが、自分から申し出ると、問題も多い。そこへ、相手から辞めてくれと言ってきた。そこに私なりの条件を付けたということだ。

もちろん、辞めるということで、心底、人生ラインのシフトを願っていた。そして、思いもよらず、それは突然やってきて、経済的な困難を一時的には甘んじなければならないことを余儀なくされ困惑はした。多少の条件というのは、年末という時期であったこともあり、次の職場探しのための年越しという最中での時間稼ぎでしかなかった。

しかし、私はそれをあえて受け入れ喜んだところ、その数か月後に、人を大事にしてくれる職場へ、パートとして働くことができるというおまけまでついたのだ。そのパートは今でもしている。

ところで、「バイトのクビ自体」それは、私の望む現実のプロセスの入口の入口であり、最終目標でもなんでもない。ただ、それでよかったのだと思っている。

これは私の強がりでもなんでもない。

考えてみるがいい。私に限ったことではないが、仮に、
時給のささやかな金をもらって、一日の重要な時間の多くを拘束され、
それで私たちが大成功するということなど、ほとんど皆無に等しい。
そうなるためには、天文学的な時間を要するだろう。

そもそもどこかの職場に依存し、誰かのために働いていていては、成功など覚束ないことは、
火を見るよりあきらかなことだ。

少なくとも、そのころの一時期は、私の望むように展開し始めているのだろうと思っていた。

それにしても、人生はそう容易ではない。

いまこの時点で、さらに忌々しいことも起きているので、気が滅入る日々だ。あれも足りない、これも足りないという、そんなネガティブなレベルな出来事が、
私の気持ちや理想までを打ち砕くように、文字通り「面当てのように」起きてきている。

それでも、私は、メゲずに。方法は、何もわからないけれど。
ポジティブなスライドを頼りに、
とりあえず、ここは乗り切ろうと思った。



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夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

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