【フィリピン訪問記】 彼女のお母さんのお墓参り その1 2012年代 #19-43

ハロウィーン

フィリピンの死者を労うハロウィーン(お盆)

10月30日から11月3日までは、フィリピンは、ハロウィーンの時期だ。この時期を選らんでフィリピンに出向いたのには、私の事情もあった。夕方からのパート仕事で、なかなか有給休暇をもらうことが難しかった。雇用側が良い顔をしなかったのだ。たかが清掃仕事と言ったら、その態度を問われるが。スタッフのローテーションが組めないと嫌がられた。

それでも、私はギリギリ29日から4日までのほぼ一週間をある意味、強く願い出て、有給とさせいただいた。しかし、それはその後、見せしめのように、いや実際に見せしめだったのだが、私のパート仕事の失職に繋がった。そのころ、私は、膝に仕事の影響が出ていた。

有給を取ったその見せしめ

話は逸れるが、あえてパート仕事の説明すると、清掃仕事といっても、狭いエリアでなく、公共施設で、範囲が広い。しかも、床はコンクリ―ト。毎日、広い距離を早足で歩いていたために、他社の方からも「足を痛めるぞ」との注意は受けていた。そして、それが右膝に現実化した。

実は、ある意味そうなる事を望んでいたのかもしれない。と、いまでは思っている。有給を取って、フィリピンに行こうとしていたこの時期は、特に右膝を庇うように歩いていたので、他社の同業者からも、「足大丈夫か…」なんていう声かけをもらっていた。もちろん「えぇ、大丈夫です!」と返礼を交わしていたが、ほんとうは痛みが多少あった。

この先どうなるだろうという心配もあった。

ついでに言うなら、この私の身に起きたハンデは、有給明けから10日ほどしてから、雇用側に失職の口実を与えた。労災にしたくないので、辞めてほしいと言われたのだ。無理に、辞めさせることはできないので、現在の場所ではなく、派遣で、明らかに、遠くのエリアの掃除担当として好きな場所選べとリストを見せられた。

しかも、時間もマチマチ。明らかに、「辞めます!」という言葉を待っていたので、先方の期待通りに「辞めます」と伝えた。この時の有給休暇取得には、背景として、こうしたことが裏で準備されていた。同じ職場で、2年連続、3日以上の有給を要求する私に対して、雇用側から、私の存在を煙たがれていたのだ。

ということで、話を元に戻す。

彼女のお母さんお墓参りへ

ハロウィーンの時期を選らんで、フィリピン行きをめざした時、奇妙なことが起きていた。
それは、このブログの「フィリピン行きと私の事情 2012年代」(2019.06.30付け)にも書いたが、右膝に痛みが出ていたのに、この旅行の期間中だけ、右膝が悪くなっていたのに、何事もないように歩いていた。

私はそれを当該ページで「シフティング」したと表現した。つまり、フィリピンに来た私は私であっても、昨日までの私ではないという意味で、シフティングをしたと思っている。
私は、膝の痛みを完全に忘れていた。

そんな私は、彼女と約束ができており、ハロウィーンのときに、彼女のお母さんのお墓参りに行こうということになっていた。彼女にとっては、もう何年ぶりにもなっており、お墓の掃除をしていないのでということで、私も、お墓参りに同行することは、むしろ賛成していた。場所は、よくわからないのだが、caloocanの先の方だろうと思う。

午前中に、子どもたちと出かけた。pasayのホテルから、タクシーでおよそ40分くらいの閑静な街へ行った。土地勘がないので、そこの場所が良く分からない。ただEDSAを北上するように東方面に向かった。途中見た高層のビル群の印象が忘れらない。繁栄の象徴だ。

この後向かう場所は、彼女が日本に来るときにも、いろいろお世話になった母方の親戚筋があるようだ。彼女は、おそらく10代後半の頃を、懐かしんでいるようだった。彼女は、細かいことは言わないが。そこへの思いは、深いようだ。そろそろ目的地に近づいたとき、ある町で、ふと日本でよく目にしたダンキン・ドーナツの看板を目にした。

「え…。こんなところに。」日本では、見かけなくなっていたが、フィリピンの小さな町で見かけて驚いた。ダンキン・ドーナツについては、私には、新橋あたりで、多少コーヒーを飲み、ドーナツなどを食べた経験がある店でもあったので懐かしかった。というのも、フリーで仕事をしていた時の懐の調子も少しは良かった時代の頃だったので。

☆フィリピンお役立ち情報・ひとくちメモ

フィリピンのタクシーの運転者は、とてもフレンドリーだったりする!

フィリピンのタクシーは、いろんな意味でユニークだ。彼女が、お墓詣りのために、運転手と何やら交渉し、2,000ペソ(日本円で約4,300円程度)で話がついたという。お墓参りにのために、そのタクシーが、帰りまでをほぼ同行してくれるのだ。もちろん、こちらで食事を用意するということも含まれる。そのあたりが面白い。

実際は、お墓参りだけでなく、遠い昔、彼女がお世話になった人々の街へ行き、運転手もいっしょに食事をしたり、さらに、お母さんのお姉さんという方の家にまで同行した。部屋の中には、入ってこなかったが、小さな路地にタクシーを切り返しながら、一所懸命サービスに努めてくれた。

その私たちに、かなり踏み込んで同行するあたりが、始めた会った運転手というより、まるで昔からの知り合いのようにふるまう感じで面白かった。日本とはずいぶん違うなと思わされた。

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