私は、洗面台などにある鏡を見るのが、あまり好きではないが。
そんな私でも、中高生の頃には、俗に言う、色気盛りに鏡をよく覗いた。
今思うと、その頃の自分が恥ずかしい。
その反動か、いまじゃ、中年オヤジよろしく、ボサボサの髪もまるで気になることもない。
やや哀愁の漂う瞳の奥には、必ず、そう遠くない時期に成功者になるのだと、
ささやかな野心を内に秘めた顔を、ほんのチラ見するだけだ。
「まだ、あきらめちゃいないよ。」とばかり。
…それで充分。
自分の顔など、しげしげ見たくないのは、当然だ。
なぜなら、かつて遊び歩いて、毎晩、浴びるほど呑んだ酒のせいで、
多少、顔が紅く酒焼けして、なんとも情けない感じなのだ。
もはや10代の頃のように、まともに見る気などしない。
ところが、いま再び、私はこの「鏡の世界」に興味を持ち始めた。
自分の色気の燃えカスなどを確認するためなどではない。
私たちの内面の心を映し出す、すべてカタチに現して見せてくれる
物理的現実の方の鏡についてだ。
こちらのほうが、ギラギラした10代の頃のような自分をそのまま映し出す
あの鏡よりも、ずっと、ずっと、はるかに面白く、意味が深い。
物理的現実を映し出す、その鏡について、
トランサーフィンのヴァジム・ゼランド氏は、第4巻。
「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)で、次のように述べている。
「世界を巨大な二元鏡としてイメージできる。その一方の側には
物理的宇宙が広がり、他方の側には形而上学的なバリアントの空間が
存在する。普通の鏡の場合と異なり、物質世界は、神、そして
すべての生き物たちの意図や思考を――神の具現――が形(イメージ)
となった反映として現れる」
(前出:p170より)
と説明している。
そして、最も興味深いのは、この鏡の物理的現実の向こう側。
つまり、二元鏡の他方の側のバリアントの空間そのものを映し出している側にある。
ここには、何があるのか。
思いっきり、平たく言えば、
私たちの運命のすべての可能性とシナリオが、すべて、この空間に中に
すでに用意されてあるということだ。
このバリアントの空間こそは、
私たちのそのときどきの思考が、そこからふさわしいシナリオを、意識的にか、
あるいは無意識に、抜き出し、選択してくる場所だ。
実は、人生のすべての結果は、人が思う通りになる。
その結果は、
ここにあると思っている。
しかも、原因は、すべて私たちの側の思いのあり方にあるのだ。
このバリアントの空間で、私たちの思考が何らかの選択をし、
時には、その中で、あらぬ方向に展開をする場面のシフティングを繰り返しながら、
もう一方の側の物理的な側面を映し出す鏡に投影させながら、
私たちは体験しているようだ。
私は、私たちの願望が現実化されるその背景について、
極めてわかりやすい記述を、前出の著作の中から引用しておきたいと思った。
「目的達成に必要な条件や状況をどこから持ってこいというのか。
そう、あそこ――バリアントの空間――からなのだ。」
(前出:p171より)
バリアントの空間にすべてがある。
私たちの人生を説明する方法として、
そう考えても良いのでは…と、私は思っている。