夢見心地☆第4章の真実 ★19#0015

フィリピン 出会い2 夢見空間

トランサーフィンからの学びの最大のメリットは、理屈によって、すべてを納得することができるということだろうと思う。
ただ「信じろ!」あるいは、「信じなくでもいいですよ。信じられる人だけ信じれば。」という斎藤一人さんの成功法則のメッセージは、正しく。そして強い。
だが、なぜそうなるかという説明はない。それを信仰のように、そうだな…。と、信じ切れれば、問題はないが。
多くの人々にとっては、体験的に、そのままをストレートに信じきるということは難しい作業だったりする。なぜなら、理性が許さないのだ。理性の体験が邪魔をするからだ。
どんなに話としては、ユニークで、面白くても、なるほどと思っても、
そうかな…とやや訝る懐疑的な気分が残る。

それでも私は、あえて、
斎藤一人さんの成功法則の考え方は、原則、正しいと思っている一人だ。

斎藤一人さんだけでなく、
多くの成功法則の考え方も、原則正しい。
だが、十分な説明ができていない。

引き寄せの法則が作用するからというだけでは、理屈っぽい現代人を十分に納得させられない。

だが、トランサーフィンは、そこが、大きく違っている。
なぜそうなるかの部分をバリアントの空間という形而上学的な抽象域を仮説することで、
成功の可能性を説明している。
私にとっては、見事に解決させていただいたと思っている。
もちろん、著者のヴァジム・ゼランド氏の壮大な概念を、
100パーセント理解したと言うつもりはない。
理解と納得のためのほんの入口に立たせていただいた程度だ。
もっと、もっと読み込む必要がある。そんな感じだ。

だが、大きな理解のための着実な前進をさせていただいていると思っている。
結果、少なくとも、多くの成功法則の著者が言っているイメージングの効果を、
いま心底、納得しており、日々、何度も、やるべきだと思っている。
私は、実際に、実践している。

トランサーフィンでいうところの、
私たちの在り方をすべて無限にシナリオ化した空間――バリアントの空間そのものは、
誰にも直接、見ることはできない。二次元の世界が、三次元の世界を認識できないように、
そのバリアントの空間を三次元の私たちは、はっきりと観察はできない。
だが、仮説上だとしても、存在している。
そして、間違いなく、いま私たちを通じて体験しているのだ。

夢の中で、そして物理的な現実の中で、
日々、そのシナリオを洩れなく体験している。それが、私のいまの実感と理解だ。

今朝、「ザ・ストレンジスト・シークレット」(アール・ナイチンゲール[著] 林 陽[訳] 徳間書店)を開いた。
意図的でなしに、たまたま第4章の最初のページだった。

冒頭、

   「『人は自分が思う通りの者になる』
    『この世で最も不思議なシークレット』とはそのことです。」

のメッセージが目に飛び込んできた。
私は、今回ほどこの言葉の意味と真実性に感銘したことはない。
つまり、なんと私たちは素晴らしいツールを携えて、この世に生を受けてきたかを、
このメッセージによって、そのキーワードが私たちに投げかけているということを、
改めて理解したのだ。

私たちは、「思う通りになる資格を有したまま」この世に生を受けた。
それは、逆説的に言えば、
思う通りになりたいが、思う通りになれないままの自分にもなれることをも、
同時に意味している。

実は、そこが、厄介なのだ。私たちは、多く場合、そこで躓いているのだ。

としても、大いなる宇宙は、私たちに一切、無条件な愛で見守ってくれている。
どう生きようと、何があろうと、何も文句も注文せずに、
私たちに委ね任せてくれているのだ。なんと大きな愛だろう。

今日のブログを書くとき、私の予定では、、
『人は自分が思う通りの者になる』という意味合いをトランサーフィン風に記述したいと思ったが、やめることにした。嫌味であり無粋だと思ったからだ。

アール氏が
   「私は、人間に何が起きるかを決定するキー[カギ]を、
    この20年間探し求めてきました。」

というこのアール氏の言葉に、これ以上の説明は要らないと思った。
この言葉に、私は計り知れず圧倒されたのだ。
凄い力を持ったメッセージだなと。改めて。

「ザ・シークレット」に登場するボブ・プロクター氏の言葉のニュアンスを借りれば、私たちは、電気の仕組みはよく知らないが、電気は使うことはできる。スィッチを入れれば、電気が点くという喩えのように、それは、冒頭の斎藤一人さんの言い方とある意味で、共通だが、
それでも、

   「人は自分が『思う通り』の者になる」

という言葉は、真実なのだと言っておきたい。

さらに付け加えで、アール氏の深い愛と謙虚さを、述べておきたい。
第4章には、このシークレットとされてきた概念は、
不思議でも、秘密でもなんでもないものだとした上で、
次の記述がある。

   「それは最古の賢人たちが最初に発案したもので、聖書にも繰り返し現われる
    テーマです。」

と述べている点だ。自身の成果だとは決して言わない点だ。
さらに気づかされるのは、
私たちは、古代の人々が知っていたはずのことを、
いつか理性の思惑や判断に任せきりになってきたらしいということ。

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