今日の素敵な一日のスタートに深く感謝します。
私の朝は、早い。4:30amには、起きる上がることがある。それ以上寝られないからだ。
今日の陽ざしが、どのようになるか読めない朝。
ふと、窓の外を眺め、少しずつ、夜の闇が白んでくるにつれて、
晴れなのか、どん曇りなのかが、判定できるようになる。
ただやっぱり曇った朝なのかな…と思った矢先に、ビルの壁が、少しづつ、
黄金色に変わるとき、美しい朝を迎え日差しを与えていただいたことに
ふと喜びが沸き上がる。
ただそれだけで、私は、心がとてもホットで、ホッカ、ホッカしているのだ。
説明をするのが難しいが、なにしろ幸せな気分になのだ。
幸せというのは、こういうことなのだなとつくづく感じる。
ただそれでいい。
ありがたい。ありがたい。ありがたい。幸せなことなのだと。
私は、寝る前に、次の日のぶろぐについてのテーマを考える。
正直、ネタで苦しむ。
「ザ・マスター・キー」(チャールズ・F・ハアネル[著] 菅 靖彦[訳] 河出書房)の中に、
「わたしたちは与えるものだけを受け取ることができます。与えずに
受け取ろうとする者は、必ず何らかの代償を求められることに
なるでしょう。」
(「ザ・マスター・キー」 p227)
私は、神という言葉を使うが、特別に何かの宗教者ではない。斎藤一人さんみたいな言い方で、
申し訳ないが。斎藤一人さんの言う意味は、私はよくわかる。
それは、今後、私が、このブログでどんなに神をという言葉を使っても、
いわゆる宗教に依存しているわけではない。恐らく、それは変わらないと思う。
なら、なぜ神という言葉を使うか。目に見えないものを存在を確信しているからだ。
それの実体は、永遠不滅の意識エネルギーだ。とさせていただく。
上記、F・ハアネルの言葉の思考の元となっているものは、
正確には分からないが。
この考え方は、聖書に起源があり、そこに通じる考え方としてあるのだろうと思う。
「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」
(ルカの福音書 /6章 38節)
ほとんどすべての優れたスピリチュアルリーダーであれば、同じことを言っていると思う。
私は、この「与えたものを、受け取る」という概念が、好きだ。
すべての真理だと思っている。だけに、その意味を常に考えている。
ときに、この言葉の解釈で、翻訳される言葉に制約を受けやすいが、
私は私なりに解釈をさせていただいている。
「制約を受けやすい」がと書いたのは、たとえば
あえて分かりやすい例を出させていただくと、
「ザ・シークレット」
(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)
がある。p174にサブタイトルとして、
「人にお金を与えなさい」
(「ザ・シークレット」p174)
とある。
これは、望む現実を引き寄せるためには、
「ザ・シークレット」では、充分な説明がなされてはいないが、
そこに、あえて注目させていただく。
「お金を人生にもたらすためには、お金を分け与えることが大変効果的です。」
とある。
そして、補足が、少し足りていないように思うが、次のように説明がある。
「お金を与えることは、『私はお金持ちだ』といっているに等しいからです。」
そう思うことが大切だといっているのだ。
逆に、
「『私は人に分け与える程充分なお金はないと』と考えていたら」
とある。
つまり、そう考えることが、残念ながら、貧しさを引き寄せてしまい、
豊かになるどころか、その逆に、法則が働いてしまうということなのだ。
そこに注意すべき点があるようだ。
私は、誤解を得やすい。
「与える」という言い方について、私の理解は、様々な著作を読むうちに次のように変わった。
「与えたものを、受け取る」という概念は、そのものズバリでもあるが、
真の意味は、「原因」と「結果」の法則について言っているメッセージだと解釈している。
「与える」というのは、善い(正しい)原因を作りなさいという意味だと。
そうすれば、良い原因を作れば、それに見合った「結果」が「与えられる」という意味だと理解している。
なぜ、「与える」という言葉なのかを、考えてみた時に、地に「種」をまくとは、
何もない大地に、種をまくことで、地を豊かにするという意味をこめているのではと。
結果として、その大地は、実りを得て、豊かになる。その意味で、与えるなのだ。
私は、そのように考えている。