【フィリピン訪問記】彼女のお父さんの死 #19-51

フィリピン-ピリピン

朝が明けきらないうちの不意を衝く電話

いまから、3-4年前の事。彼女のお父さんが、病気で急死した。朝、暗いうちに電話が鳴った。「え!誰…」番号表示がないことで、彼女だということが分かった。こちらから、電話をかけなおすと、「オトウサン シンダ…」と告げた。それを聞いて、私は、胸が詰まった。
軽い嗚咽する感じで、目に涙が滲んできた。

「そうか…ご苦労さん」と応え、多少のお金を工面することを告げた。私は、彼女のお父さんの生きざまに、大変に潔い高潔な死を感じた。執着しない潔さだ。自分のことで、これ以上迷惑をかけたくないという気持ちが、非常に伝わってきていた。

お父さんの病気の原因は、よくわからない。彼女の日本語力もあり、十分伝わらないのだ。ただ、内臓系、特に肝臓に問題があったようだ。彼女から、お父さんの具合が悪くなったという話は、かなり切羽詰まってからだった。そこには、家族、とりわけ彼女の懐具合を慮ってのことだというのが、どうしても感じてしまう。痛みに耐え、そこは口にしなかったようだ。

これまでも、多少、何らかの薬を飲んでいたらしいが。そこはあまり、はっきりしない。
ただお父さんにしてみれば、経済的な状態がわかっているだけに、自分のために、経済的に厳しくなることを厭う意味え、自ら我慢を強いたようだ。

病院代を惜しんで、入退院を繰り返した

そのお父さんが、倒れたのが、4月初旬だった。お金がないので、大きな町のはずれにあるパブリック病院で、診察を受ける。お金があれば、プライベート病院で、高水準の治療が受けられる。そのパブリック病院で、そこそこの治療を受け、そのまま入院するが、2-3日で、家に帰ってきてしまう。実際、帰ってきていた。

お父さんは、この時ある程度自分の行く末を、そう遠くないと感じていたその上での覚悟を体現していたように思う。せっかく、戻ってきても、再び、入院することになる。こうしたことが、3-4回続いて、5月初旬には、いよいよその最後の時が来た。彼女は、毎日病院に行き、入院中のお父さんの体を拭いたと、訴えていた。彼女も、末期のお父さんの死を感じていた。

そして、5月8日頃、亡くなった。彼女は、6人兄弟、5番目で、唯一の女性として生まれ、お父さんからも、可愛がられたと言っていた。そして、辛いときに、お父さんに悩みや愚痴を聞いてもらっていた。いろんな相談にも乗ってもらったという。

彼女もお父さんの死を覚悟していた

その大切なお父さんがなくなったので、彼女の気持ちは、相当、厳しかったと思う。後に「マッチャン ガ イルカラ ヨカッタ」と、私にそう言ってくれたが。私は、日本にいて、葬儀には出られなかった。私の経済的事情は、かなり厳しかった。申し訳なく思う。
そして、葬儀が行われ、前妻の子どもたちも、葬儀に来たらしい。とても大勢だ。

お父さんの死後、お兄さんたちは、ややバラバラになった。お父さんを中心に、男兄弟たちが、
それなりに、お父さんを立てていたのだが、その中心の柱がなくなったのを境に、兄弟たちは、やや分散的になった。電話越しに、彼女の言葉からも、そういう雰囲気が伝わってきていた。

フィリピンの葬式は、ほぼ一週間続く

フィリピンは、常夏だ。一年を通して、暑い。12月が、一番過ごしやすい。日本と違って、
3下旬から、6月までは、フィリピンの夏季に当たる。4月、5月は相当に暑いようだ。その暑い時期に行ったことがないので、体感的には、わからないが。常夏のフィリピン人が暑いというほどだ。

そのフィリピンで、葬儀は、一週間も続く。死人を出した家で、「焼きそば」を出す。もちろん、葬儀に来た人は、自由に食べられる。かなり大勢の人がくるようだ。台所では、そのほかの料理も、一日中作っている。暑い国で、遺体の管理が大変だろうと思う。ドライアイスを大量に使うという。

そして一週間後には、土葬を行う。

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