夢見心地☆巧妙にリアリティに貶められる物理的現実 ★19#0059

フィリピン-ピリピン

目の前のリアリティは、実に巧妙だ。
私は、目の前の物理的現実について、充分、心得ていたつもりだった。
つまり、
私たちの思いの結果を、私たちの物理的現実として、自分に返しているということを。
それをよく理解しているつもりだった。

昨日、携帯にメモしていた
様々な賢者たちの示唆の断片を読み返していた時だ。
改めて、
目の前が現実が、鏡のような存在であることの示唆を読んで、
ふと、自分が、すっかりリアリティの巧みな罠に疑問も持たず飲み込まれて、
馴染んでしまっていることに気付いた。

例えば、ちょっとした不足を感じる場面と状況に追い込まれて、
結果である現実に対して、
つい、うっかり真正面から向き合ってしまっている自分に気がついたのだ。

いまこの状況をなんとかしなきゃ…という思いは、

完全にリアルな現実に飲み込まれている証だった。
結果である現実に、いくらこの場をなんとかしなくてはと考えても、
それが鏡の反映だとだとするなら、その虚像をどのように対処しても、ほとんど徒労に終わる。
努力が一時的に報われても、また同じ結果を招く。鏡に映った結果に頭を悩ませるのではなく、鏡の被写体である原因を正さなくてはならないからだ。
携帯に書き写したメモの示唆によって、
自分が、そのロジックの罠の渦中に、知らずに陥っていたことを思い知らされた。
差し迫った状況は、その意味で、実に巧妙だ。

さらに、自分が知らずにリアルな状況に追い込まれたとき、その場で、悩み続けるということは、その足りないという人生ライン上に居続けるということであることにも、
示唆によって正された。

こんな時、私たちはどう対処すべきか。

足りているという人生ラインへの選択による乗り換えを行うことだ。
いま、足りていないという状況にフォーカスすることなく、
いま、まさに足りているという状況の人生ラインへフォーカスするということだ。

そんなことが、本当に有効なのかどうか。俄かには信じ難いだろう。
だが、私たちの人生の履歴を思い返してみると、

私たちは、意識しようが、意識しまいがフォーカスしたものの結果の中で、
すべてを体験し生きていることに気づく。

それを分からなくしていているのが、同一直線上のような錯覚を醸しだしている
時間軸のせいなのだが…。

私たちは誰もが、それぞれの時代に出会う人々というのがいる。
もう一度言うが、それは時間軸という錯覚の中で起きていることなのだが。
その中で、出会う人、出会わない人というのがいるというのが、その事実だ。

例えば、学生時代の友人たち、職場での人間関係、あるいは家族関係なども。
一定の私たちにとって、その時々において必要だった出会いで、
その大半の人々は、その時のその時の出会いの中の仲間であるのだ。
学生時代を終えると、必然的に、それ以降をも引き続き共にして過ごすということは、
全く皆無ではないにしても圧倒的に少ない。

なぜそれが起きるか。
それは意識せずに、私たちは出会いをフォーカスして創り上げているからだ。
その大半の人々は、私たちの舞台の何らかの役割を果たしている人物たちで、
何らかの影響を残し投げかけている。
ただ出会ったのではなく、納得できなくても、必要だったから、
フォーカスしていたからなのだ。そのフォーカスの強弱はあるのだろうが…。

つまり、状況は、常に私たちのフォーカスの向き合うところで、
常に変わっていくことが、示されているということだ。

少し乱暴な言い方だが、無意識に運転する車も、意図すれば、
その方向は変えることはできるように…。

タイトルとURLをコピーしました