夢見心地☆引き寄せの法則(映画「黒い瞳」について) ★19#0084

フィリピン-ピリピン

今朝。駅に向かって歩いていると、駅の前に林立するビル群の
その壁面に、優しい朝のひかりが照らされて、心が和んだ。
その柔らかなひかりに、思わず感謝の言葉を唱え繰り返した。
「ありがとう」「感謝します。」

その光のことで、ふと、
忘れられない映画について思い出したので、それをあえてブログに書かせていただく。
私の選ぶ映画のベスト3の中の一つでもある「黒い瞳」についてだ。

ニキータ・ミハルコフ監督の「黒い瞳」だ。
まるでロートレックやモネの筆遣いを思わせる映画のタッチで。
印象派の映画版の絵画そのものだ。

どのシーンを取り上げても美しさに満ちている。
私は、この映画のことを何度か友人たちに話たことがある。
そのたびに、ハンカチが3枚絶対にいると決まって告げたものだ。

はっきり言おう。あなたが、どんなに唇が薄く、ニヒルで薄情な人間であっても、
この映画を見れば、あまりに切なすぎてどうしてもハンカチ1枚では足りない。
掛けてもいい。
ただし、ハンカチは3枚用意してからだ。

私は、この映画を3回劇場で観たが、3回とも、胸に熱い切ないものが込み上げてきた。
ストーリーが分かっていても、ボロボロに涙がこぼれてしまう。

そして、いつも鮮烈なラストシーンで微かな希望を残してくれるのだ。

私がシビレたのは、何といっても、
マルチェロ・マストロヤンニが演じたロマーノの役作りとその演技力が何といっても
素晴らしいからでもあった。

映画は、アテネからイタリアへと向う豪華客船の中での話。
新婚旅行の途中だという初老の紳士(ロシア商人)が船上のレストランに現れた。

その紳士に、レストランの給仕であるイタリア人のロマーノがなぜか、
彼の過去の恋の打ち明け話をするところから始まる。
紳士が現れると、掃除していた手を止めて、その紳士に近づく。

彼(ロマーノ)は、おそらく、今は客もなく、退屈で、話がしたかったのだろう。

その様子は、揉み手仕切りなその態度からも伺えた。
二枚目の風貌を持ちながら、その影は微塵もないほどに落ちぶれたその様子。
どう見ても彼は、後悔の念に押しつぶされながら、
いまは酒びたりの毎日で、酒焼けし、鼻を赤くしている。

ここにいるロマーノは、
意思の弱そうな風采のあがらないただ話好きのレストランの給仕だ。
レストランの掃除そっちのけでいまその恋の話に熱を帯びる。

あらすじはこうだ。
若かりしロマーノは、イタリアで、富裕の銀行家の娘と結婚し、自由気ままに悠々自適の生活をしていた。しかし夫婦生活はというと、ロマーノは、気の強い妻の言うがままに尻に敷かれ、圧倒的に妻にリードされている。

そんな生活から逃れて、ある地方の湯治場で出会ったロシア人、女性アンナと出会い、一夜を共にしてしまう。 アンナからは、愛のない生活をしており、資産家の老人の夫を愛したことはないと告げられる。そのままアンナと別れる。

その後、ロマーノは、彼女の残した手紙をもとに、ロシアで再会を果たし、
ロマーノは、アンナに新しい恋に生きる決意と約束をする。
アンナとの倫ならぬ恋とその生活を夢に描きながら、
ロマーノは、イタリアにいる妻と別れるため一旦、故郷に戻る。

しかし…。

イタリアでは、帰ってみると、妻の事業が失敗し破産したことを知る。
一度は、離婚を決意し、ほんとうの愛に生きようとしていたものの、
何も知らない妻から、生活の立て直しのため改めて頼られると、気の良いロマーノは、
自分の身勝手な倫ならぬ恋について、とても告げられなくなってしまう。

そればかりか、
アンナとの約束も、そのまま…反故にしてしまったという話だった。

鮮烈なラストシーンの話をしよう。

この映画のすべての醍醐味は、ラストシーンに集約されている。
普通なら、お約束で、口をつぐむところだが。
その話をしても、この映画の魅力が絶対に揺らぐことはないほど素晴らしいので。
あえて、紹介しておきたい。

そのラストシーンをぜひ、映像で見ていただきたい。DVDが出ている。
おそらくニキータ監督の渾身を込めたラストなんだろうと思う。
画家のクロード・モネの「日傘をさす女」をイメージさせるような、
とにかく美しい鮮烈なシーンだ。

映画は、とにかく、ここでは語れないほどの切ないストーリーと映像美、
そして音楽とその展開が続く。

ロマーノが得意満面に過去の話をほぼ終えたとき、なぜか、
甲板に一人の女性が立っている。後ろ姿だ。ゆっくりカメラは近づく。
そして振り返る。

彼女は、まるで何かの啓示を受けたように、周りを見渡す。
その顔は、光に満ちている。
それは、あの美しい彼女の顔だ。
あのロマーノの不倫の恋の相手、アンナだった。

映画はそこで、終わる。

この映画は、チェーホフの短編作品をいくつか合わせた作品だという。
文字通り、フィクションの物語だ。それでも、単なる話だと言って片付けられないほど、
リアリティがある。

映画のストーリーに違和感を感じないのは、
こうした思いもしていなかった再会というのは、現実世界でよく起きることだからだ。
誰しも、これほどロマンティクな話ではないにしろ、似たような経験はしているからだろう。

だから、この映画は、ある意味共感性を呼ぶ。
私が、成功法則を学ぶ中で、思うことは、
こうした出会いというのは、単なる偶然では、絶対にないということ。
引き寄せの法則が確実に働いているということだ。

引き寄せの法則の世界では、すべては、必然であり、原因と結果に基づいている。
念が念を呼ぶのだ。

映画「黒い瞳」がフィクションとはいえ、ロマーノは、アンナへの懺悔の気持ちをずっと持ち続けていたのだろう。それがために、彼は、酒焼けした赤い鼻が示すように、酒を飲み続けなければ居られない思いを抱いていたのだろう。

また、
アンナからも、
「あの人は約束をしたのに…」という想いを、男への疑念として持ち続けていたであろう。

 「何事もよく考える人は、その思いに応じた人や物を引き寄せます。」
(「引き寄せの法則」ウィリアム・W・ワトキンソン著 林 陽[訳]
  KKベストセラーズより引用)
こうした念と念の波長が、歳月をかけて、二人の出会いを演出しても、そのリアリティを疑うほど私たちは、それ言い切るほどドライではない。

私たちは、知らずのうちに引き寄せの法則を体験しているものだ。
それを運命のいたずらと片付け、単なる偶然と思い込みながら。

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