私たちのいま目の前で起きていることは、運命でも偶然でもない。
それを明解に説明し述べているのが、
「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)
の中で、ボブ・プロクター氏が言うメッセージだ。
「人生であなたに起きている事は、全てあなたが引き寄せています。
あなたが、思いイメージすることが、あなたに引き寄せられて来るのです。
それは、あなたが引き寄せている事です。何ごとであれ、あなたが考えていることが、
あなたに引き寄せられてくるのです。」
(「ザ・シークレット」ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)p19より引用)
とある。
私は、この言葉を無条件に支持したい。
私の例で申し訳ないが、
私が映像関係の仕事がしたいと望み、映像関係の仕事に携わることができたのも、
何よりも、私が、なりたいと考えていたからなれたのだ。
もう少し、踏み込んで言わせていただくと、
高校時代に、突如として、ふと劇団に入ろうと考えた。
一枚の安っぽいチラシをみて、そう決意したのだ。
ある日のことだ。まるでわざとのように、
なぜか新聞のチラシに、まったく馴染みのない児童劇団の団員募集が入っていた。
それが目にとまった。まさに私にとっての小さな「引き寄せの法則」のスタートだった。
嘘のように思われるかもしれないが、本当の話だ。
そして見事に、写真選考と面接、演技試験に受かった。
某児童劇団にそこそこの入学金や月謝を払い通った。
その入学金の調達のために、学校の担任に修学旅行を辞めることを申し出た。
記憶がほとんどないが、3-5万円程度が戻り、入所が可能になった。
すると、しばらくして、どこからともなく、噂が耳に入る。
この児童劇団は、
なんと「チラシ」という悪口があって評判だったのだ。
劇団の経営を維持するために、頻繁に団員募集の折り込み広告をよく出していたらしい。
当然のように新人募集をしていたのだ。
「なーんだ。そうだったのか…」と思った。つまり、私は、おそらく見事に難関を突破して合格したのではなく。劇団の維持の都合で受かったのだろうと理解した。
せっかく、
高校の修学旅行をキャンセルして、その返金で、入学金を払ったのにである。
私は、私も認める、当時、いつも一緒にいてつるんでいたハンサムな友人を誘って、
その劇団に入ったのだ。
彼の合格は、ある意味分かる。私は、気づくべきだったかも。
しかし、何かを得たいと思っていた私たちは、そんなことはどうでも良くて…。いや、
良いことになった。そして、何より、少しどん欲だった。
まだ入所1ヶ月程度で、予備新入生の私たちは、図々しく、年数の経験するものだけが
受講できる少人数制の本科に潜り込んだ。
どこかで、劇団側も、それを許してくれていたのだろう。
劇団名は、ちょっと伏せるが、
そこでは、後に有名になった推理作家の先生がいて指導してくれていた。
この先生の授業は、刺激的で為になった。
この先生、当時は、松竹で助監督だったという。助監督といっても、結構、年配者だった。
その人の影響もあって、演じるということが楽しくもあった。
だが、結局、半年程度で、友人とともに、そのチラシ劇団を辞めた。
チラシという理由はそこにある。長く居つかないのだ。営利目的が見え見えだからだ。
人が足りなくなると、すぐに募集する。それは、2ヶ月に一度ぐらいだった。
大勢の応募者が居て、かなり収益があったと思われる。
その”インチキ”と言いたくなるような劇団でも、
ギャラこそ、1円すら、もらえなかったが、多少は映画やテレビにも出させていただいた。
友人よりも私の方が、映画会社やスタジオに行く機会がなぜか多かった。私は、はっきり言うが、ハンサムではない。どちらかと言えば、個性的、悪く言えば、ブサイクな部類だろうと思っている。
そのチラシ劇団に入ったきっかけも、
やはりプロクター氏(「ザ・シークレット」の出演者)が言うように、私が引き寄せたのだ。その後、募集は、何度かしていたようだ。
確かに新聞にチラシがあるのを2-3回見たが、もはや、まったく興味も関心もなかった。
なぜなら、引き寄せていないからだ。
大学も、演劇科に入った。なりたいというより、私にとって、それしか目に入らないからだった。導かれるように、恰好だけは、とりあえずそこそこの文学部演劇科に進学した。その話は、
今回は省略する。蛇足でいえば、大学の履歴など、何の役にも立たないと申し上げておこう。
ともかく、
私は、CM制作を中心とする映像会社に入ることができた。望む通りに。
省略といっても、まったく初めて読む方もいると思うので、あらましを、
簡単に書く。大学の演劇科は、あっさり辞めて、思想的な無力感に陥った。
なぜか飲食関係に進む。理屈っぽいことを考えたくなかったのだ。
しかし、ここにも実は、遠回りをしているようで、引き寄せの法則が働いていたことを、
後に深く感じた。
飲食業…。ピザパーラーで正規社員として働いた。
それは、全く望んでもいない職場に進んだことになる。しかし、引き寄せの法則は、
凄いのだ。願望実現のために、全く思いもしない出来事と向き合うことになる。
かなり強引な路線変更を、人生ラインが用意しており、安っぽいドラマのように、運命のシナリオに翻弄された。
ピザパーラーで働いて、9か月目に、私は、右足首付近の骨膜炎で入院することになった。
余命1年とまで院長に脅かされながら、半年ほど入院した病院で、なんと有名広告代理店の方と出会った。病院からは、悪性、良性のどっちつかずのうちに、半年が過ぎ、病院を退院した。
それから、骨膜炎は、なんともなかった。ここにも、引き寄せの法則を感じるのだ。
かなりのカッコマンの彼には、実際は、なんの力もなかった。いくつか、業界への足掛かりを私のためにつけようとしてくれたが、全くダメだった。
たとえそうであっても、私には、表面上は、こんなカッコマンになろうと私は憧れた。
その人物は、当時、俳優の原田芳雄氏に似た、かなりカッコイイ人だった。
私には、ただ憧れるためにだけ現れた人のようだった。そして、私は、自力で、
CM会社の募集を引き寄せた。そして、下積みを経験した。
どうしても映像ディレクターになりたかった私は、会社をはじき出され、その後、数社を経て、
フリーの企画・演出家になった。しかも、それが結果、会社勤めよりも、不安定なフリーの生活が、水を得た魚のように、どんな職場よりも、私を生き生きとさせてくれたのだ。有難い話だった。
いろんな意味で、うまくいった。当時、私は引き寄せの法則を知らなかったので、
ひとつの不安の影を見つめ、フォーカスし続けて考えていた。
それをお知らせしておきたい。
それは、つぎのような思いだ。
「いづれこの暮らしも先細りになり、厳しい時を迎えるに違いない。」
まるで浦島太郎がしたように、こんな楽しい生活ばかりしていていては、
いけないと勝手に考えたのだ。愚かにも。
その考えは、冒頭の引用で言うなら、
「何ごとであれ、あなたが考えていることが、あなたに引き寄せられてくるのです。」
(「ザ・シークレット」ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)p19より引用)
ということになった。
そう考えていたために、私は、その通りになりつつあった。
はっきり言っておきたい。私は、その通りに考えず、極めてノー天気で、
そのままカッコマンで居られたら。
まだ、まだうまく業界を渡り歩いていたかもしれない。多分、その通りになった。
しかし、
「中途半端に聡明な私は、そうは、考えなかった。」
これからは、PCの時代だと、思ったのだ。そう思ったあたりから、
私の映像制作のスタイルも変わり始めた。気が付くと映像をリニア編集していたり、
イラストを描いていたりもした。そのような絡みで、コンピュータの仕事をする機会が
多くなったのだ。
それを今思えば、やはり、私がそう考えたとおりなのだ。
私に先見性があったのじゃない。
「引き寄せの法則」的に言えば、私がそうなることを、自分に引き寄せていたのだ。
そう確信できる。
このブログを読んでいただいている方たちも、一度と言わず、
何度でもご自身を振り返るといい。何らかのカタチで、自分がそうなるよう選択して、
導かれてきているはずだ。
私たちは、自分の思い描いたなりたいものになっているのだ。
誰かが、背中を押して、そこへ行けと、そうなったのじゃない。
どこかで、
それを必ず意識した時期があって、それが現実化しただけなのだ。