夢見心地☆心の迷宮に意識を向けるとき ★19#0131

フィリピン-ピリピン

「マスターの教え」(ジョン・マクドナルド[著] 山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社)に注目してみた。この本は、コンパクトで小さいながら、見事に真髄のほとんどが記されている。
前半は、小説のような読み物としての愉しみを抱かせる。
後半は、人生の深みと宇宙の法則、成功法則の原理がしっかりと語られているのだ。

なぜ、この本に注目したのかというと、私の中の思いが、自然に「マスターの教え」に向けられていたからだ。
ここに、何らかの答えがあるという閃のようなものを感じたからだ。

私にとっては、
いま意識(顕在意識=「外なる心」)の迷宮に大いなる関心があって、
そこから如何に解放されるかが、個人的な、極めて重要なテーマになっている。

そして、その答えについては、ある程度、私の中で、
ほぼ核心をついた概要が掴みだせている。
やっと核心を遠巻きにできたようなあたりで、その外堀に立ったような程度であるが。

その中に何があるのかも、曖昧ながら推量しつつもある。
もっと考察や吟味はいるが…。足りていないとも思っているが…。
だとしてもある程度の方向性が見えはじめてきた。
その片鱗を事あるごとに、当ブログの中で、少しずつ記述していければと思う。

「マスターの教え」の当該著書に表記に合わせて敬意を表する意味でも、
ここから以降、下欄までは、意識について、本日のブログでは、
「外なる心」と表記させていただきたい。

そして潜在意識については、「内なる心」とさせていただく。

「外なる心」の最大の問題は、その脆弱性にある。そして、自らの問題に
囚われるという難点を持っている。

その囚われるところが、自らが、文字通り自ら創り出した「迷宮」である。

まさに、この我らが物理的現実こそは、
そこから如何に自らを解放し、自由になり、
本来の自分の姿に目覚め、気づくかというための場なのだ思う。

その意味では、創り出したというより、
固より誰しも、それを背負うという宿命を試練として負っているのだと、
そう感じている。

「外なる心(意識)」の迷宮とは、どのようなものか。

言うまでもなく、
「外なる心」は五感を通じて、物理的現実の窓口となり向き合う。

   「それは『外なる心』が目や耳から入ってくる全ての情報を判断し、
    これらのメッセージを『内なる心』に伝達している」

 (「マスターの教え」ジョン・マクドナルド[著]
        山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社:p77より引用)

と前出著書は述べており、
さらに「内なる心」への伝達が「外なる心」の主な役割であること。
その伝達を受けた

   「『内なる心』こそ、あなたの中にあるパワーなのですが。
    その本質として、『内なる心』には自ら判断して良し悪しを決める機能は
    ありません。その結果、意識の迷いもありません。『内なる心』は、
    不可能、失敗、障害、限界、不足というものを知りません。
    それは、『外なる心』の指示により、『外なる心』が行けという
    方向に向けて、制限のないすごい力を発揮することができます。」

    (「マスターの教え」ジョン・マクドナルド[著]
        山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社:p77より引用)

という「内なる心」と「外なる心」の関係性がある。
しかし、この司令塔たる「外なる心」が、自らの制限に振り回されたときが問題になる。

   「次々と『外なる心』が新しい欲望を見つけたり、
    ありもしない障害を作り出したりするからです。」
 (「マスターの教え」ジョン・マクドナルド[著]
        山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社:p77より引用)

このとき、「外なる心は」暴走する。
「ありもしない障害」の迷宮の城に迷い込むのだ。

   「心配したり、憎しんだり、はねつけたりしたいようなことがあなたを
    悩まし続ける。」

 (「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」
    ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)

迷宮が厄介なのは、そこに意識を向けさせて、捉えて離さないことだ。
私たちが、そこに意識を向け続けるかぎりにおいて、その迷宮は、ますます力を得て、
まるで養分を吸い取り続けるパラサイトのようになるからだ。

ここから分かることは、迷宮に意識を向けない。向けてはいけないということだ。

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