今日のブログは、結論を考えず、記述が始まった。
というのは、ブログを書くときは、通常、ある程度の内容を決めて、終わり方も決めて書くものだが。書いていると、
不思議なもので、方向性を決めていても、書き上げたときは、思わぬ方向に記述意欲が自分を超えた何かの力に煽られて展開が変わることがある。その時の結果は、何となく満足する。
今回、結論を流れの中のアドリブに任せたいと思ったので、とりあえず記述を始めた。
今日のタイトルは、「Wasted(”無駄になる”の意)」とさせていただいた。これは、
YouTubeの動画でよく見かけた実況中継の中の一つの結末を意味する。
特に、GTA5のシリーズで、何かにチャレンジしたゲームのキャラクターが、失敗して俗語的には、「死」を意味するようだ。
実際、ゲームで、例えば、高く険しい山をキャラクターがバイクで下るというチャレンジを行うとする。その際に、一度で、うまくいかず失敗をする。その時、キャラクターは、「Wasted」の状態、まさに「死」であり、ゲームのニュアンスを含めて、「dead」とは言わずに、「Wasteda(無駄になる)」と表示されるのだ。ある意味、なるほど…と思わされるものだ。
これは、ゲーム作者の配慮なのかもしれない。「あくまでもゲームですよ」という社会からの批判をかわす狙いもあるのかもしれない。
ところで、私は、この物理的現実を仮想現実だと思っている変わり者のひとりだ。それは依然のブログでも、時折、触れている。
私たちは、非常に高度な技術のプログラミングの中に住む住人だという認識を持っている。
GTA5のようなゲームの登場人物(キャラクター)は、ゲーマーの意向に従って、ゲームの中で何らかのアクションやパフォーマンスを展開する。
キャラクターに知性も意思もない。ただゲーマーの操作に従って強制的に、動かされている。だが、ゲームの世界は、驚異的な進化を遂げて、リアルな現実に近くなっている。キャラクターの表情や身体の動きだけでなく、背景(舞台装置)も極めて、現実世界により近づいている。髪の毛、一本、一本さえ、風の動きに細かく揺れている。
コンピュータ技術の進化で、そう遠くないうちに、映画のような質感から、さらにもっと飛びぬけたリアルなものになることは、間違いない。実写と区別できなくなる日がくるだろう。
このコンピューターのより高度な技術は、そうした表面的なことだけでなく、キャラクター自身をよりリアルな人間のように設えてくるだろう。
そうなったとき、実は、私たちが物理的現実の人間であるという自覚を維持できるかというと、
そのとき、おそらく自分自身の存在を疑うだろうと思う。
私は、それを見据えて、早々と私たちは、物理的現実の住人だと思い込んでいるが、実は、高度なゲームの中の住人だという可能性が高いと感じてしまうのだ。ゲームの中の住人(キャラクター)が、コンピュータ技術の発達により、知性や意思を持ち感情を持たせるそんなゲームの開発を考えないわけがない。
そうしたことが、可能かどうかではなく、そういう野心が必ず芽生えると思っている。
そして、それは可能だということだ。
だとするなら、私たちは、もともと高度な技術のゲームの世界の住人で、固より知性もあり、意思もあり、感情ももって登場させられている。さらに創造性も、痛みも、触覚も、すべて併せ持たされて、異次元の世界の私から、見られている仮想現実の住人と考えても、違和感のないところだ。
そういう可能性を考えたとき、私たちの世界を無理してリアルな存在だと考える必要もないのではと、私は、そんな風に考えてしまう。
もし私たちがゲームの住人であるとするなら(私はそうだと思っているが)、私たちの行く先はどこなのだろうと思わされる。ただ、どんな生き方をするにせよ。私たちは、いづれ私たちが認識できないゲーマーによって、何らかのゲームオーバーとなる。「Wasted(”無駄になる”の意)」になるだけだ。
所詮はゲームなので、またやり直しが利く。それは2回戦目。パラレルな世界だともいえる。