たった今、昨日、洗って干した洗濯物を取り込みながらふと思った。
ありがたいことだな…。ちゃんと乾いている。
その…、
ごく当たり前のようでいながら、
なんと道理に適っているのだろう…と、妙な感慨に耽ったのだ。
と同時に、
自然は…、というより宇宙は、私たちに、
いつも何かをもたらそうと待ってくれているのだなとも感じた瞬間でもある。
事実、宇宙は、私たちに、何も条件をつけずに何かをもたらそうとしてくれている。
だだし宇宙は、私たちの不用意なオーダーにあまりにも忠実なため、
「コレは、まずいっすよ。」あるいは
「こんなもの、ほんとに現実化していいんですか。」とも、
それに類するようなカタチで問い返してくれることはない。
一切、何も判断することはなく、
ただ、私たちの無意識の思いのオーダーに、ひたむきに返してくるらしい。
その意味で言えば、
すべての問題は私たちの心の内側にあって、その原因そのものを、
宇宙に正しく送り出していていないということに、
私たちの望まないことが起きているそもそもの原因があるようだ。
今日は(いつもそうかもしれないが…)、まったく脈絡のないことをあえて書かせていただく、
私は、このブログを書く前に、本日のテーマに苦しんでいた。
アレもしなければ、コレもしなければという他のこともあって、ことさらその思いに振り回された。
特に、今日は、個人的な事情があって、
寝不足気味で、考える気力を欠いていたのも原因している。
そこで、
「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)
をパラパラめくるうちに、
もっとも、いまの心境に近い言葉に出会った。
それが、次の引用の箇所だ。
「今自分は何を考えているのだろうか。今、自分は何を感じているのだろうか」
(「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳]
角川書店)より引用)
だ。
という言葉に、心が引っ掛かったのだ。
しかし、眠い頭で、その問いかけに、何も答えは出ようはずはない。…。
固より、この問い自体が、禅問答のような難問でもある。
ボヤけた思考力で、何かを得られるそれも道理がないのだ。
そこで、私は、原点に帰るつもりで、
以下の言葉を、自身のために繰り返した。
「 なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになるであろう。 」
(マルコによる福音書(口語訳) 第11章24
『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年 より引用 )
という言葉を思い返した。
聖書の言葉だ。私の好きな言葉の一つでもある。
お茶を濁すような始末の悪いブログになってしまったことをお詫びしたい。
本日は、この程度のことで、締めくくらせていただきたい。
やれ、やれ…という心境だ。