夢見心地☆Mr.Beanのドタバタが示唆する教訓 ★19#0190

フィリピン-ピリピン

昨日、まったくの偶発的な事情で見出したのであるが、
Mr.Beanのある意味、空恐ろしいドタバタ劇の動画を観た。

それはYouTubeの動画で、映画化された動画のさらに細分化された一部だった。
日本語翻訳されていないので、Mr.Beanと登場した場面の背景のシーンの状態で
理解せざるを得ないが、
おおよそのストーリーは、理解できる。

固より、Mr.Beanは、意図的なものだと思うが、
主演のローワン・アトキンソン氏自身が演じる姿は、
世界で通用するような無言のパフォーマンスによるドタバタで人を笑わせる狙いが
あるからだ。

その動画のタイトルは、
Whistler’s Mother | Funny Clip | Classic Mr Bean
https://www.youtube.com/watch?v=JDaB62torng

だ。
Mr.Beanのシリーズでは、常に、ちょっとした権威を含め常識や形骸化されたフォーマルな世界を飄々とおとぼけな表情で、アンチする。
その適当さ感な表情がなんとも言えず、笑ってしまう。
私にとって、この動画は、笑えなかった。見入ってしまった。

前述したように怖すぎたのだ。

トランサーフィンの以下に示す指摘にあるが。
ある意味象徴的に「闘ってしまった」という映像として、
受け止めたからだ。

ごくごく簡単にこのシーンを説明しておこう。

もちろんすでに断ってあるが、日本語訳されていないし、私は英語に堪能ではないので。
100パーセント正確だとはとても言えない。ご自身で鑑賞し確認をしていただきたい。
あくまでも、理解できたストーリーと、ネット上で、このストーリーの意味を多少とも
確認する意味で、
簡単に調べた程度だ。そして、

何よりも私の感じ方の説明にとって重要なのは、
この動画の冒頭より、数分程度のところまでで、そこまででそれなりに十分だった。
もちろん、内容は面白いので、Part2も、
あるいは同シリーズの関連動画などをも含めご覧になることはお薦めする。

前述の動画のシーンでは、世界的に著名な”Whistler’s Mother(母の肖像)”が厳重かつ大切に展示されている部屋の中にMr.Beanが登場する。その絵画が、彼のドタバタの餌食になるというストーリーだ。しげしげと、Mr.Beanは、その画を覗き込む。触ってはいけない画の表面に歴史の重みのあるホコリがついていたのであろう。指で軽く払いのける仕草をする。

すると、案外ホコリがついていたようで、彼はくしゃみをしたくなるが、なんとか乗り切る。が、思いがけず、画の表面に大きなくしゃみで絵の表面を汚してしまう。すべての悲劇は、そこから始まる。

慌てたMr.Beanは、ハンカチで拭うが、そのハンカチの一部は万年筆のインクが浸み込んで汚れていたものだ。

その部分で拭いてしまったために、画の顔の部分が、今度はインクで汚れてしまう。飛んでもないことになる。その後、画の修復を図ろうとするが、ますます混乱ととりとめのない結果になるが、そこからのストーリーは、果たしてどうなるのか、動画で確認をしていただきたい。とにかく、ハラハラ、どきどきの連続で、綿密に計算された笑いがそこにある。

だが、私は、笑うどころではなかった。

トランサーフィンのことを考えていたからだ。その象徴を見事に、この動画が示唆してくれていると感じていた。

そのトランサーフィン
(「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店 p57)
の話に移るが、その中で、
概念として、次のような考え方がある。

  思考を現実化する空間としてバリアントの空間がある。

とするものだ。

そのバリアントの空間とは、私たちの潜在意識がコンタクトできる空間であり、

   「バリアントの空間には、各人にとっての運命ラインが無限に存在する。」
 (前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」 第1巻 p56より)

としている。
平たく言えば、私たちには、無限数あるシナリオの人生ラインが存在しているという概念だ。

それは、不思議な概念でも何でもなく、
私たちの常に向き合う都度の選択において、人生のラインがどんどん変わるというものだ。
もし、ある選択をしなかったら、違う人生を歩む可能性を示唆している。

もう少し突っ込んだ言い方をすれば、
固定的な、また一切、運命は変えることのできないとする運命論者的な考えを支持していない限り、可能性の観点から言えば、至極、当然、想起される概念でもあるだろう。

その考え方によれば、いま目の前の状況に対して私たちの思考が放射する思考の一定の傾向(=ポジティブなのかネガティブなのかというような[=パラメーター])が、都度、それに見合った人生ラインに同調しシフトするというのだという考え方を伝えているものだ。

私は、この概念と視点を素晴らしいと思っている一人だ。

その意味で、
人生ラインは、ちょっとした違いで分化し配列された人生ライン(シナリオ)が、
無限数あるというもの。例えば、
朝いっぱいのコーヒーを飲む場合。複数のラインが分化される。

コーヒーを飲む場合。コーヒーを一口呑む場合。あるいは、用意はしたが、呑まない。その場合も、新聞に夢中になる。あるいは携帯でメッセージを読む。コーヒーは飲まないですぐに出かける。コーヒーを飲んで、トイレに立ちが上がる。今日は、会社を休もうと決意するなど。
そのバリエーションは、いくらでもある。あげたらきりがない。

そのどれを選ぶかは、自由だが。その後の展開は、さらに無限数あるということだ。
なのに、私たちは、毎日、意識せず見る夢見状態のまま、何かを選択している。
実は、他の選択と展開が、無限数あるのに。しかも選択は、常に、一つだ。

ゼランド氏の示唆は、その特異性ある概念で、理解することがなかなか困難であるかもしれないが、示唆しているものの深みと意外性、大きさ、科学的な態度には、圧倒される。

そのゼランド氏の示唆の中で、とりわけ、これまでの成功法則とは、
異なるあまりに異端的な表現があるので、あえて取り上げてみようと思う。
その代表格が、以下の引用に象徴的に表されている。

 「今いる人生ラインの上で何かを変更することは不可能である。
  あなたが絵画展にいるとして、自分の好みに合わない展示品を撤去したり、
  配置替えをしたりすることができないのと全く同じだ。そこではあなたが主人ではない。

  けれども、もっと気に入ったものを観ようとして、後戻りし、
  別のホールに移動することは誰も禁止していない。」

(前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」 第1巻より引用)

という示唆だ。
ゼランド氏は、人生ライン上のシナリオに変更を求めたり付け加えることはできないと
言っている。
したがって、今いる人生ライン上のどんな不平、不満、文句は言うべきでないと。

ならば、
他の人生ラインを選択すべきだという。しかも、それは容易で、
ただ他を選択をすればいいという。
つまり、思考の放射の傾向を変えることだ。

この概念が、私には強烈にあり、前述したMr.Beanの絵画展の話は、文字通り、人生ラインに変更を付け加えてしまう話のように思えたし、そう見えた。

Mr.Beanのようなことが、実際に起きたとすれば、どれほど、空恐ろしい出来事か。
画は賠償して済む話でもないし。もちろん、賠償もできないだろう。

象徴としてのMr.Beanのドタバタだが。
そのドタバタ劇を観ながら、想像以上に、人生ラインの変更を求める。つまり、不平・不満、文句などの私たちの反応が、どれほど危険かをこのストーリーによって思い知った気がした。

☆ ☆ ☆

【フィリピン・夢見メモ】

2005年12月初旬に初めてフィリピンへ旅行し、異国を体験した。あのとき、もしフィリピンに行くという選択をしなかったら、彼女のとの関係性はなかっただろう。度々、この夢見メモで書いているが、あの美しい夜の底の幻想と出会わなかったら、私は、スピリチュアルな生き方をしなかったかもしれない。あの日、フィリピン・マニラの貧しい人の層を見なかったら、私は、必要以上に、人の貧しさに思い入れを持たなかったはずだ。もし、彼女の優しい態度に触れなければ、やはり私の人生のラインは、大きく異なっていたはずだ。それは、時折思うことだ。だが、艱難辛苦の日々が、長く続き、苦しい現状に悩まされていても、それでも総じていうなら、誠に、私の人生は、何事にも代えがたいほど幸せだということだ。神、感謝している。



★過去リンク
夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

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