いまだけでなく、過去にも、どん底を嘆いた時期があった。備忘録のテキストには、2005年の頃で、2012年、2013年と不運が続いた。2016年に一度、そのどん底を脱したと理解したが。実は、そうではななくて、わずか、一年もホッとすることもなく、2017年から、これまでより、もっと深刻で強烈などん底をジワリと体験した。現在も、その真っただ中にある。
2010年-2012年は、文字通り惨めな思いをした。パートの仕事、ネットの仕事をしていたが。
ネットの仕事は、勇み足で、独り法人をしたが、十分な営業売り上げをすることができずに、一人法人を7年続けて辞めた。法人をたたむこともできずに、休業とした。事実上の法人の閉鎖だ。
そのころは、同時に、夕方から夜の10時までのパートをしていたが、生活費を稼ぐだけでいっぱい、いっぱいで、むしろ若干足りなかった。場所は、事情があって言えないが。公共施設だと言っておこう。何も考えたくないという思いから、掃除の仕事をした。
大きなスペースのそこを利用する人々の邪魔にならぬよう、緊張感をもって仕事した。
この時はお金がなくて、一日100円すら財布にない時もよくあった。
お金がないということで、行きも帰りも一駅分歩いた。定期を買わずに、実費の交通費とした。やはり、定期を買った方がいいのだが。定期をもっているだけで、そこの仕事を永遠にするようで嫌だった。いろいろ計算すると、一駅分歩くことと、休みには交通費が掛からないことを計算すると、多少数千円はマイナスなるが。
それでも定期を持つことで、何となく拘束されたくない精神衛生上の理由から、定期代を崩して実費払いを選択した。
職場はしんどく。ストレスが頂点だった。そうこうしているうちに、膝と腰にリスクが現れた。右足を引きずるようになると、職場の管理者である所長から呼び出され、私個人の体調などを尋ねられたが。それからほぼ一か月ほどで、解雇を言い渡された。
そこでは、2010年から2年ほど働いたが。職場になじめなかったこと。制服の帽子をなくしたこと。夜の部の副所長が、所長の代理だったが。いい加減で、しかも小さなオッサンで、年中さぼって事務所にいたので、私は、そこに休憩を取りに戻りたくなかった。
そのため、ちょっとした人通りのない影で休憩を取り、余計に、外の掃除で無理をした。結果、歩きすぎで、膝を痛めた。
さらに、2日以上の有給を嫌がる企業体質があって。というのは、スタッフに予備要員がいないため。一人の欠員で、ローテーションが組めなくなるため、休むのを嫌がるのだ。まして有給を暗に認めない企業だった。
その体質を知りながらフィリピンへ行くために4-5日の有給をお願いしたりで、私は扱いにくいと思われた。そしてある日、企業側は、足の故障を理由に、首には、できない社会的な建前があるので(コンプライアンスがあるので)、その企業の別の掃除場所の案件を私に選択するように配置転換を迫ってきた。
それは、私がきっと辞めるのを見越して、わざと通勤条件の悪い遠方のものや時間が合わない形式的なものを突き付けてきた。
私は、すぐに企業の思惑を理解した。即答はしなかったが。腹積もりは決まっていた。翌日には、辞めると所長に申し出た。そのとき、その管理者から、言われた一言が、「君を労災扱いにしたくない理由もある」と言い訳するようにいった。私の前に、高齢の方が、労災認定をされたばかりで、企業側は、追加を嫌がったのだ。
一事が万事が、そんな会社だったので、辞めたかったのだ。だが、辞めれば、生活費に困ると思いがあり、仕方なく無理に続けていた。
私は、このパート先を首になったのは、神の采配だと感じていた。
こういう場合は、神は私たちを守ってくれる。とはいえ、この職場をやめて、不安のうちに年越しを余儀なくされた。新しい年、早々に、どうしていいかわからなかった。これからどうなるだろう…という不安でいっぱいだった。
生活費は非常に厳しかったが。ネットビジネスの仕事は続けていたので、何とか食いつないでいた。精神衛星上は非常に良かった。生活不安さえなければ…。
しかし、次のパートが見つかるまで、春まで待つことになった。しかし、神の采配と言ったのは、ここにある。長期に休んだことを含めてだ。それだけでなく、神のギフトがあった。
とても良い職場が見つかった。午前中のみで、一人する職場だ。
しかも、会社本体が人権意識の高い会社で、そのグループの親会社が、日本の最大手の一つだった。私は、いい意味で驚いた。社員研修もあり、不当な扱いは一切受けない。また会社の正社員の方たちが、とても、被雇用者を大切にしてくれたからだ。私は、非常に感謝している。