ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」、ゴーリキーの「どん底」、逐一、挙げないないが、
他にも人生の一時的に最低な時期、不調な時期、絶望的な時期などをテーマにし、
それをタイトルに託して人生の転落を象徴した内容の作品は、数多くあるだろう…。
私自身を振り返ったときも、何度か人生のピンチと思えた時期がある。
ザッと、思い出しても、3-4回はある。
そのたびに、なんとか切り抜けてきた。いや、切り抜けられたというべきか。
斎藤一人さんだったと思うが、何かの講演CDの中で、
どんなにか辛かったはずの困難な時期のことを、
人は案外忘れているものだという意味の指摘をしていた。
事実、私たちは、昨日のことさえあまりはっきり覚えいていないものだ。
まして1週間先、1ヶ月先、1年前のことなどは、
特に、印象深いことしか覚えてはいないだろう。
同様に、過去の苦い経験も、案外、きつく、刺激が強かった割に、
詳細は覚えていないことが多い。
そのとき、そのときで、
上司などに酷く叱られ…その誰かの顔だったり、
ちょっとしたケアレス・ミスが、飛んでもない結果を招いたりしたような場合だったり、
または、
大きな転機のポイントになるような出来事、勤め先を辞めただとか、
それら印象的な場面が、何かしら気まずさの中にインパクトのある出来事として
残っていたりする。
だとしても、いざ時が過ぎてみれば
なぜ、そうだったのかさえ思い出せないものだ。
ただ、ただ「今、ここ」の結果が目の前にあって、
そして、いろいろ吟味してみると、
その渦中の時は、ただ現状に不安になり、執着していただけだということに気づく。
「今、ここ」になって振り返ると、実は、
案外、自分は恵まれていたのだなと思わされる。
あのアレが…、
いや、あんなことがあったからこそ、
結果は、良かったのだと、再評価してそう思うことさえある。
その意味で、むしろ自分はツイていたのだなと納得する。
いつでも、守られていたのだと。
確かに、その時は、厳しいに違いない。
もうダメだ…と、苦しくてアゴがあがるような場面もあったかもしれない。
☆ ☆ ☆
昨日は、個人的な思いの中で、かなり落ち込んだ気分の中にいた。
4度目か、5度目の人生の「車輪の下」だなと、塞いだ気分になった。
しかし、今朝、
こうしたことを踏まえてだが、ふと、あることに気づいた。
人それぞれの人生の「車輪の下」や「どん底」の状況というものは、
パラレルリアリティの中間にあり、
ひとつのラインから別のラインにシフトする繋ぎにあたるものなのではないのか…と思った。
そう思ったとき、
これは、実は、より良い再生のチャンスを大いに含んでいるのだと思えた。
さらに言えば、
別のラインに乗り移った後の「善し、悪し」を決めるものは、
結局、その「再生のチャンス」をどう受け止めるか、その程度によるようだと気づいた。
そう思えたとき、一見、困難な状態とは、
望ましい次のラインへのシフトに大きく関わりを持つものだと
そんな捉え方をしても良いのではと思えた。
ならば思いきって、
「車輪の下」「どん底」を楽しもうと思う。
「おそらく神の目的は、この波乱に富んだ夢見の万華鏡で可能な限り
すべてのことを経験するというところにありそうである。」
(「トランサーフィン 鏡の「超」法則」ヴァジム・ゼランド[著]
ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店):p116より引用)
※ここでいう「神」は、文字通り「神」でありさらに「人」というものを含んでいるようだ。
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