夢見心地☆心の制限 ★19#0144

フィリピン-ピリピン

私の関心は、いま心の制限について向けられている。
今日のブログは、何か、こうしたら良いというような処方的なことは、とても言えないと思っている。まだ、これからその心の制限とどう向き合うかを、考えていかなければならないというその途中にあるので。

私の個人的な話をしておきたい。このブログで、1-2度触れたような気がするが、私は、限定的だが、やや神経質な一面がある。強迫観念というやつだろうか。少年時代に見たある検証実験的なTV番組がキッカケで、とんでもなく病的な神経質に陥ったことがある。その心に占める比重は、現在では、ほとんど解消されたが…。

多感な中学、高校ぐらいまでは、自分でも病的だと感じるほど、公的な器物に触れることができなくなった。たとえば、電車の吊り革のグリップ、ドアノブ、そして公衆電話など。それらに触れるのは、かつて、多少パニックに近いものがあった。
自分でもそれはおかしいと思いつつのことでもあった。

余談だが、あえて言えば、それは家族関係などの不調和というものが神経質を招いたと、今では理解している。そのTV番組は、無批判な少年の心に、あまりにも科学的な側面を前面に押し出し土足で踏み込んで、走り抜けた。20分程度の番組だった。細かいことは、遠い時代の記憶でもう思い出せない。

いま思えば、内容があまりにもエゲツナかったといまは思う。
あらましを述べておこう。
あるシーンだけを今でも覚えている。

当時、一般的だった純和風の家庭内トイレだ。
手の清潔を守れということが、おそらくテーマだったのだろう。
番組は、ナレーション形式で、このようになるということを誇張して見せていた。
トイレを済ませた設定で、手についた汚れを灰のようなものを付けて検証してみせたのだ。

指の先に汚れが付いたとして灰をそこそこ付けて、
人がトイレを出てから、いかに、手を洗うまでに、
家庭内のあちこちのものにどのように痕跡を残すかを示した。

それは、意外なほど多く、幼い少年の私には、大変、ショックだったのだ。
不潔というものについて、その後、私は、成人し社会に出てしばらくの間、自身を守る強迫観念に苦しんだ。

いまも完全には、拭い去れていないが、その時の不潔に対する恐怖心は、かなり収まっている。
どのようにしたかといえば、あえて不潔なものに触るということ、それに耐えるということだった。その逆説的な荒療治は、決して全ての方に有効だとは言えない。保証しない。真似すべきでない。

ただ私は、無理せず、必要に迫られて、触れてみるということをしたが、
やはりそれで、すべてが一夜にして解決するほど、甘くない。
いまでも、基本的には、吊り革や公衆電話には、積極的には触れないし。触れないようにしている。どうにも、仕方がないときだけだ。

ただ、その荒療治が、結果、「絶対に、触れられない」から、なるべく「触れたくない」というレベルにまでは、心が改善した。私は、あえてそのことに無理していない。
今後もそうだ。ただ、私の強迫観念は、かなり限定的だということに気がついている。
自分の理屈が成り立つと消滅する部分もあるからだ。

社会に出て、大丈夫なのだと、自分に言い聞かせが出来てからだが。いまでは、
レストランや居酒屋などのコップについて、平気で受け入れられたりはする。
そこから分かるのは、自分に向けたそのダメだとする根拠が、実にいい加減で、
怪しいということだ。

もちろん、不特定多数の人が明らかに口にするコップがひどく汚れていれば、それは、チェンジしてもらう。神経質かどうかに関わらず、誰でも、基本的には、無理だろう。
そのまま受け入れ、使うことはできないと思う。それでいい。
事前に、確認するという作業も私の習慣としてある。

私は、なぜ自分の恥ずかしい部分を晒してこのようなことを述べたか。
これも、個人的な部分では、自分のメンタリティを変える作業の一つだと思っているからだ。
あえて、自身を晒してみるという療治として。それはともかく、
第一義的には、心の持つ制限や制約について考えたからだ。

私がいま晒したことも、場面や状況の違いがあるにせよ、大いに関連していると思うからだ。

たとえば、いまお金が足りていないという思いに込みに苦しんでいれば、その制約は、ある種の強迫観念を生み出す。体現の仕方、表れ方、自分の取る態度は、病的な神経質さと、経験の仕方や見かけは違うが、心に作用するものは、同じ根っこにあるような気がしてならない。そう思っているからだ。

無責任な言い方で申し訳ないが、しかし本気で言うが。
その心の制約についての解決策として、ある直感が働いている。
そして今後、それをこのブログでも突き詰めていきたいと思っているが。

当面、2つの解決策があると思っている。
今の時点での話だ。今後、変わることがあるかもしれないが。
と言い訳もしておこう。

一つは、
  畏れているモノに、あえて開き直って向き合ってみる。

もう一つは、
  神秘的なものを信じる

ということかと、思っている。
誤解のないように言っておくと、神秘的なものをというのは、
目に見えないものの力のことだ。必ずしもオカルト的なことも含めて言っているのではない。
正確に言えば、潜在意識(神)の力の思惑であり、
すべては、自分の内面の世界がストーリーとして創り上げたものという観点というようなものだ。

今日の時点では、これ以上は言わず、曖昧にしておきたい。ただ、きわめて個人的な面を打ち出し、心制限という形で、あえて紹介させていただいた。



★戻る | ★前日の記事を読む

★過去リンク
夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

タイトルとURLをコピーしました