まるでコントみたいな話なのだが。誰が言ったのか、正確に覚えていないが。
情景を私なりのニュアンスで以下に記述させていただこうと思う。
めったに家を空けることもないある主婦が、
何泊かの外泊をともなう家族旅行などで、
自宅に戻ってこう呟く。
「あー、楽しかったわぁ!いい旅行させてもらったわぁ~。
でも、やっぱり家が一番よね~。」
「何だよ!それッ!」という思わずバカバカしく思える話だ。
そんな同じ光景は、
つい先だってのゴールデンウィーク中も、
起きていたであろう。
「でも、やっぱり家が一番ね。」
混雑や渋滞は十分過ぎるほど分かりきっているのに、
それでもなお、マイカーなどで出掛け、自ら高速道路の渋滞を創りながら、
そして
「でも、やっぱり家が一番!」
と誰かが呟いたに違いない。
この話には、ある象徴的なニュアンスを含んでいると私は思う。
もう一つ。
あくまでも仮定の話だが。
地球のどこかの地点から、まっすぐ、ともかく、
どこまでも、まっすぐ幸せを求めてある人が旅をしたとしよう。
「♪~ 幸せって、何だっけ?何だっけ?」 と追い求めながら…。
ただ、”醤油(しょう油)”があるだけでは、なぜか我慢できない。
納得できない人物だったとしよう。
その旅の終わりに、ふと気づくと、この道は、
いつか来た道。かつて、いた道。
自分のいた場所に必ず戻ってくるだろう。
言うまでもなく、地球は丸いから。幸せが見つからなければ、そこに戻る。
なぜなら、その人の幸せはどこか遠くにあるわけではない。
どこまでも幸せを求めて歩みを進めても、絶対に見つけることはない。
自ら、円周を描いて、
そのうち自分のいた場所に戻ってくる。起点が同時に終点でもあるということだ。
これも、ある象徴を含んでいる。
それは、幸せはどこにあるのかを象徴しているのだ。
自宅に帰って一言の主婦の実感は、
たしかに旅行に出て、それなりに楽しかっただろう。と同時に。
幸せは、”いまここにある”ということが象徴されていることに気づいた呟きだ。
幸せを求めて旅をする人も、結局、もといた場所に戻る。
幸せは、世界のどこかにあるわけではないという明示だ。
斎藤一人さんの著作本に「幸せの道」(KKロングセラーズ)がある。
講演のCDが2枚付いている。
「幸せの道」の講演(書き起こしの本)の中で、
次のように述べている。
「ところでね、『幸せの道』っていう話なんだけど、
『幸せの道』ってどこにあるんですか?って聞く人がいるんですけど、
そんなもんないんです。非常に残念です。(笑)」
(前出「幸せの道」より引用)
という。
さらに、続けて
「今日の朝、目が覚めて幸せ、ご飯が食べられて幸せ、みんなといられて幸せ。
幸せだ、幸せだと言いながら、歩いた人の後ろに幸せの道ができます。」
(前出「幸せの道」より引用)
という。
これに対比して、
「不平とか、不満とか、愚痴とか、泣き言とか言いながら、歩いた人の後ろに、
不幸の道ができてます。」
(前出「幸せの道」より引用)
その上で、
「遠くに幸せを求めないでください。遠くに幸せを求めると、ほとんどの人が
行き着きません。苦しくなるだけです。
それより、
今の自分の幸せに気がついてください。」
(前出「幸せの道」より引用)
という。
冒頭の主婦の呟きは、どこか他所よりも、
「今の自分の幸せに気がついた。」
(前出「幸せの道」より引用)
ということではないのだろうか。
幸せを求めて旅する人は、起点が終点で、結局、自分の内に幸せを見出さなければ
ならないということを暗示しているのではないだろうか。
地球は、丸い。ただ丸いのではなく、地球規模において暗示的で、
私たちは、その一点に過ぎない。
我が1点は、我が一点であるが。
すべてがそこに含まれているという意味だと思わざるを得ない。
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