夢見心地☆シルエット ★20#0379

フィリピン-ピリピン

ふとある光景が浮かんだ。それは、
私が、はじめて観た金環日食の光景だった。金環食であることを知ったのは、ずっと後のことだ。そのときが何歳であったのか。今となっては、私には分からない。
ただ、前後関係を判断してみると、どうしても3-4歳頃のようだ。

当時の私に、金環日食の意味や意義など、全く知る由もない。

ただ私にとって、近所の子どもたちなのだろう。私から観たら少し上のお兄さんたち(小学2-3年生程度か)が、何か黒いガラス板のようなものをかざして空を見上げている光景が、私の印象に深く残っているのだ。金環食については、その意味しかない。

コントラストの強い日差しの中のようだった。周囲に、色は無く。ただ光に包まれた空間と、
そのお兄さんたちのシルエットが、私の周りを取り囲んでいる。私は、下から彼らの陰を光の中に仰って見ただけだ。
その印象が、今なお、強く残っている。
なぜ、その記憶がいつまでも残っているのか。
後年になっても、その意味がもたらすものが何なのかさえわからないでいる。

こんな言い方をすると誤解を受けるかもしれないが、そのお兄さんたちのシルエットを仰ぎ観ながら、私は、「特別なんだ」と感じていたことだ。

幼稚な心で。

それは、決して奢った優越感などではなく、意味まで分からないが、
孤を感じた特別感を抱いたのをなぜか覚えている。
そういう自分を、ビジュアルの中で、少し離れて見ているという感じか。

その少し距離感をもって見ている自分を、もう一つ記憶として持っているものがある。
やはり、その幼年時代を過ごしたときのことで。
大田区大森駅方向に向かう途中のビジュアルだ。もちろん、
それが大森駅方面だと知ったのは、ずっと、後のことだが。

ある夏の日の風景。私が、母に手を引かれ何処かへ行こうとしている場面の画だ。
恐らく私たちが住んでいるところ以外は、ほとんどが大概まともで、
少なくとも家らしくあり、特にそのあたりは、
そこそこの資産家の人の住むお屋敷が多かったところでもある。

塀を超えて何かの木々が枝を張り出しおり、路地のそこかしこが青葉で溢れていた。
それは天を覆い隠すほどに、茂っていた。
決して、大袈裟でなく。
まるで森の中を歩いているかのように記憶している。

傍らには、
幅が2メートル程もありそうな川のようなドブがあった。底を覗かせる浅い水が、
さわやかにサラサラ流れている。
その時代は、まだ街のドブや川を覆うというアイデアが根付いておらず、
川と言ってもいいような水の流れがむき出しだった。

比較的綺麗な水が流れていたように思う。
それが、一方では、良い意味の循環で、昆虫などを育んでいたのかもしれない。

私の記憶は、その向こうに見える光と母と私が手を繋いで歩いている一光景そのシルエットだ。
なぜか私というまだ幼い本体が、その光景を後ろから見ているのだ。
一体、それが、何の意味があるのだろうかと思う。

だがその記憶は、私の情緒を育んでおり、何かを強く常に主張している。
といっても、幼年時代をこうした光の一光景とともに、美化したいのではない。
なんといっても、
私は、ただの偏屈な凡人だし、ありふれた俗物でさえある。それ以上ではない。

誤解されることはないと思うが、念のため言うとその程度だ。

ただ私自身を見ている私というのことには、少し関心がある。

残念だが、私がそれで自分自身に悟りを開いたかというと、それはない。
だから、どうぞ、ご安心あれ、すでに俗物だと申し上げたばかりだ。

しかし、私は私の気づかない次元で、本来(本源的な)の私が確実におり、
私を見守っていることなのかもしれないな…とは、
成功法則の賢人たちからの学びの一つとして少しそう思う。

もしかすると、幼年時代は、今よりかは、その感性がやや鋭く、理性に縛られず自由であったのかもしれない。少なくとも、意識せず、私自身の在り方を自由に観ていたのかも。
自由でいられる心があったのかも…。

なぜなら、私が、貧乏な母のもとに生まれ、それがどれだけ不幸なことだなどとは、
まったく思ってもいなかったし。むしろ、この母のもとにいることが幸せだった。
この母を離れて存在することなどできないのだと、生きものの端くれとして直感していた。
だから、母の周りにまとわりついていたのだろうと。

何となく疎遠になってしまったネットで知り合った方に
「今、ここ」という考えについて、どう思うかを尋ねたことがある。
それが印象的だった。
その応答によれば、一生懸命答えてくれたメールに。次のような記述があった。

   「今にいる、つまり本来の私でいれば、
    願望実現は当たり前のことになる。
    願う前から叶ってく状態になるんです。」

その方なりに、
成功法則の賢者から学び得た実感を伝えてくれた。
このメッセージのメールを読んだとき、
ふと、「マスターの教え」(ジョン・マクドナルド[著] 山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社)
の中の一節が、なぞるように思い出された。

今日のブログのしめくくりに引用させていただきたい。

   「私たちは個人を越えて、宇宙の力に結びつけられるのです。」
   (前出「マスターの教え」:第12章《個人を越えた無限の宇宙の力》p88より)

という一節があり、
その上で、

   「あなた自身が自分で『私』と言う時、それは実にすばらしい力を持っており、
    あなたは自分で自由にできる力が何のなのかわかってきます。
    自分がいかにすばらしい人間なのかもわかってきます。」

   (前出「マスターの教え」:第12章 《個人を越えた無限の宇宙の力》p90より)



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夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

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