昨今のウィルス禍になる以前のこと。
私が、街の中を歩きながら、あれこれ考えていたことを書いてみよう。
考えていたことの大きな一つは、
有楽町や周辺の繁華街、オフィス街を歩いた時に、ふと感じたものについてだ。
私は、ここ何年も、
日本のもっとも中心的な都心の眺めを愉しむことがなかったなと思った。
もちろん、年に1度ぐらいは、有楽町や銀座を、ほんの一瞬のように素通りすることはあった。
ただし、街を愉しむという余裕がほとんどなかった。あえて避けてきたか、または逃げるように通りすぎてきたのだ。
自分がそこにいる違和感に馴染めなかったのだ。
それはある意味、自分の意識を表すような象徴的な事でもあり、
私が経済的に追い込まれていた時期と呼応しているのだなと感じた。
その街中を歩きながら、ふと思ったことは、改めて日本の中心街の豊かさ、
ゴージャスぶりだ。豪華なビルが林立しており、街は日々その表情を変えている。
以前に見ていた同じ風景の表層部分が、こんなに変化しているのだなという思いだ。
新橋あたりを歩いた時――ここは、日本のサラリーマンにとって、
なくてはならない飲み屋街のひとつだが。
そうした人々が愉しむということにおいて、至れり尽せりな、店が遍く立ち並んでいる。
パチンコ屋も目立つほどある。そして、カラオケ店が大きな看板を出して新規客を招いている。
それらは一見、私の世界とは無縁なようでいて、実はそうではない世界なのだ。
私にとっては、
この物理的現実で不足ばかりを体験しているとき、
何が、自分の中で欠落していたか。それを思い知った瞬間でもある。
良くも悪くも、豊かさを享受し、
こうした「豊かさの象徴」の場所に浸かり、その中で遊ぶ自分もイメージしてみないと
ダメだなと思ったのだ。
鶏の卵が先か、鶏が先か、のように、
私の場合は、こうした場所から、身をはじかれ退いていったときから、
対比するように、自身の狭い生活圏の中で、私は地味を旨とするようになった。
私は、フリーの映像のディレクターをやっていたとき、
そのほんの少しばかり間だったが、経済的には、いまのように足りないではなく、
過不足なく足りているという一時期があった。
そして、そうなるずっと以前に、私は、カウンター・バーなどで、
一人で呑んでいる姿を自分の望む姿としてイメージしていたことがあった。
そのイメージングは、実際に、数年後に、その通りになった。
時間の都合さえつけば、毎日、行きつけのお店で飲んでいたのだ。
その頃は、私なりに並な生活もしていた。不足に、打ちのめされることは全くなかった。
いま、有楽町から新橋へと歩きながら、街の豊かさを思ったとき、
それは、私が所有する豊かさではないが、たとえ他人のものだとしても、
この豊かさを享受することが、実はとても大切なことなのだと思わされたのだ。
ただ、そうした中にいるだけでも、価値があると。
こんな街歩きの中で、無意識のうちに、
富裕意識が、何らかのカタチで培われるのだなと思ったのだ。
さらに、
この自分とは、まるで関係のない街や繁華街の中を歩いているうちに、
もう一つの想念が浮かんできた。ちょっとした客観的な見方から、奇妙な印象を受けた。
レオナルド・ディカプリオが出演した映画「Inception」
という作品で、そこで表現された特異な世界に似たような印象だ。
映画内容は、ターゲットとなる人物が見る夢の世界から、
潜在意識に入り込み高度な技術で企業スパイを行う仮想世界の設定だった。
私が好きなタイプの映画だ。
この映画の最大の圧巻は、なんといっても潜在意識をコントロールし、
街などの風景やストーリーを創り上げるプロセスなどで、すべての風景が、
この物理的現実では、絶対にあり得ないような状態で描出されるところにあるだろう。
例えば、
進む方角の街の風景全体が90度直角に創出されたり、
または自分の頭上に、逆さになって街が出現している様子などだ。
映画の中の世界は、非常にシュールな世界で、見ごたえのあるものだった。
私は、いま歩きながら、自分の観ている風景にふと顔を振り向けたとき、
その世界が、私の意識の中で創出され起きている世界なのだなとそうはっきり思えた。
つまり、意識が創り上げたものが、いまそのまま、
物理的現実世界に現出しているのだという感覚に陥った。
瞬間というより、幾分、長めなように感じたのだが、といっても、
ほんの数秒のことだろうが。
その世界は、映画「Inception」のように派手では、決してなかったが、奇妙に物理的現実を
歪めた世界ではなかったが。
私の資産ではないそうしたたくさんのビルディングなどの建物のすべてが、
文字通り、自分の意識の産物なのだと強く感じたのだ。
それは、私が反対側の景色に注意を向けたら、たったいま見ていた風景は、
私の背後で瞬間的に消滅しているかもしれない。なぜなら、
私が見ていない間の背後の世界は、
そのまま表示しているのは、明らかに無駄だからだ。意識の世界をビジュアル化する
エネルギーの浪費になるからだ。
しかし、再び、私が、先ほど見ていた風景に、もう一度、顔を振り向ければ、それは、
瞬間消えていたことも悟られないよう、瞬間的に、元通りにそこに現出される。
前の状態と今の状態に一つ違いがあるとしたら、
それは、
私が思考しながら歩を進めた分だけ、私の景色が3Dの移動のように、やや建物が角度を変えて、遠ざかり、物理的整合性・合理性を維持しながらそこにあるということだろう。
そう思いつつ、
私は、ふとバシャールの言う、瞬間、瞬間について考えてみた。すると、私たちの世界は、
まさしくポジフィルムの静止画のひとコマようなの世界なのだということを感じたのだ。
そのちょっとずつが異なる現実のポジフィルムの連続性の中で、
誰も、普段はあまり意識することがないと思うが、
私たちの物理的現実や存在は、まさにポジフィルムの世界の中にあるものなのかもしれないという思いがした。
映画のフィルムのコマのように。
それが、連続したとき、はじめて動きと意味を持つ。
私たちは、意識の用意した意識世界のフィルムに、
物理的現実を再生するために、瞬間、瞬間を焼きつけているらしい。
つまり、それは意識の用意したフィルム上に、
自分の望む世界を自分の思うように焼き付けるられるということでもある。
そう考えたとき、私の物理的現実の世界で起きている不足は、
どう考えても私自身の意識世界の中で、私が意図して創り上げ起きているということだ。
となれば、その不足を生み出している意識を、
豊かさのイメージで置き換える必要が、どうしてもあるだろう。
…などと、戯言を考えていた。
★戻る | ★前日の記事を読む
★過去リンク
夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/
夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/