私の備忘録にしまい込んだ数年前のある出来事について触れたい。
それでも…。やはり人生はゲームなのだと改めて感じる。
今朝、目覚めて、昨日あった出来事の意味を考えた。
はっきり言って、読み解くことは、今の時点ではできない。
ただこれは、私が、私自身のために
もしかしたら、高い次元の私が、私自身の学びのために制限のある現実で、
私がどう考えるかを試すために用意した事前のゲームなのだとも思った。
こう書いたとしても、
何か、とんでもなく、仰々しい事が起きたわけではない。事前に言っておく。
「なんだつまらないことを」と、もったいぶってと、
言われるのも承知でこのブログを書き始めた。
それは私の地元にも、あのレンタルビデオのTSUTAYAがあった頃のことで、
その頃に店の一隅で起きた話だ。
この日、私はレンタルビデオを返却するため深夜に立ち寄った。
カウンターで返却を終えて、新作コーナーへ向かった。どの通路も、DVDの棚が天井いっぱいに広がる。
両サイドから、圧迫感がある。対面で、人とすれ違う時には、どちらかが、体を横にせざるを得ないくらい狭い。
新作コーナーは、このTSUTAYAの奥の奥。しかも角にあった。
私が、いまその正面に立つと、私の左側は、邦画のDVDの旧作の棚がある。
新作コーナーと90度の位置関係だ。
ちょうど文章で使う”カギ括弧 (「)”のはじめの形状と似た関係になっている。
私が新作コーナーの前に立った瞬間、ちょうど1メートルほどの間に、突然、50代半ばの中年男性が立ちはだかった。
文字通り、私にはお構い無しに、私の眼の前だ。かなり大柄だ。
この時期らしくマスクをしていた。髪は白く。どことなく服装からタクシーの運転手かと直感した。口だけを隠す小さなマスクの下から数センチほどの白いあごひげが、だらしなくはみ出していた。
この男性から見ると、私が、邦画のコーナーをやや塞いでいる形になる。私は、いまこの男性が、突然割り込んできたので、わたしの目の前は、この男性ですべての視界が完全に遮られた格好だ。しかも、臭い。少し前まで吸っていたタバコ残り香と、たっぷり塗った安いポマードの匂いが、きつかった。
いわゆるJKたちからもっとも嫌われる典型的なオヤジ臭が丸出しだ。
これで楊枝を加え、餃子臭がすればギネスものだ。
「なんと失礼な奴なんだ」と、当然、思った。まさに、怒りが噴出する直前に、
私は、心が冷めた。この現象を呆然と考えた始めたからだ。
私は、この無礼な男の顔を見た。男は、私を見ようともしない。初めから意図的に無視している。マイペースで、私の立場を踏みにじって、平然を装っていた。男が棚から手にした最初のDVDが見えた。なんと「上意討ち」というタイトルで、内心、笑ってしまった。
この男性の嗜好と世界観が透けて見えた瞬間だ。その後、2分前後で、この男は、立ち去って、3メートルくらい後方のところで、多分、場所柄、オカルト系のあたりで、腰をかがめて何かのタイトルをシゲシゲと見ていた。
この男のいる間中、私は、決して下がらず、空間をゆずることもしなかった。単なる意地からではない。ただ状況を見守ったのだ。
男の好きなようにさせ、すべてを観察し、その後のなりゆきの意味を考えていた。
冒頭に書いたように、意味は分からない。
だが、それでは、このブログを書く意味がないので、私なりの、受け止めをどうしても書きたかった。ここまでは、無礼な男の突然の登場で起きた現象を私の側からの印象を書いたものだ。ある意味、異様な人物を不快な気分を据え置いて客観視してみたというあたりだ。
私の受け止めを述べよう。
この男は、高い次元の”私”からあえて望んで”引き寄せた”のだと感じたことだ。
現実世界で、私の体験とするために、いまの私には、認知できない何らかの理由で現れたのだ。
おそらく。
バシャール的に解釈させていただきたい。
この男は、実は、すべて私にしか存在しない私の宇宙に現れた。
つまり、私が承認し同意して受け入れた存在で。
”無礼な男”に姿を変えた私自身ということなのかもしれない。
私の化身(アバター)なのだとそう思ったことだ。
バシャールの解釈に頼れば、この男性は、もちろん存在はしている。
男自身の特別な理由で、存在しているのだ。
だが、私が、受け入れているこの男は、
私の都合で解釈され創造された人物なのだ。しかも鏡の世界の中の人物なのだ。
こう言ったからといって、
私は、正気を失っているわけではない。
私は、私たちの心の宇宙を改めて見直す良い機会を得たのだ
と思ったことを言いたいだけだ。
こんな話は、
「鏡の法則」を受け入れられない人々には、まっとうに受け入れられるはずのない与太話に
過ぎないだろう。それも可である。
だが、バシャール的な世界。リアリティ・トランサーフィンなどの「宇宙の法則」等の考え方を受け入れる人々が、徐々に、増えつつあることも、事実だ。私もその一人。
過去の成功法則の本の中にも、それをはっきりこうだと主張はしていないが。
共通した”ある現実感”というものを示唆している記述を見出すことはできる。
「引寄せの法則 エイブラハムとの対話」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス 吉田利子[訳] =SoftBankCreative)の中でも、それを感じさせる記述を、何箇所か見出した。一つだけ、引用をしておこう。
「さまざまな人生経験はあなたがたが人生を創り出すために与えられた粘土の
ようなものだ。それを手にとってこねあげて創りたいものを創るのではなく、
ただ眺めているだけでは、満足できるはずはない。それに、
あなたはそんなふうに考えて時空というこの現実に参加しようと
決めたのでもない。
今、どんなふうに見えていようとも、あなたの『粘土』には、可塑性が
あることを理解してほしい。例外はないのだ。」
(前出:「引寄せの法則 エイブラハムとの対話」P077より引用)
と、これはエイブラハムの言葉だ。
この「粘土」とは、もちろん、私たちが認識している現実を指している。
マーフィやジェームズ・アレンなどの著作にも表現はソフトだが同じような記述はある。
それは、機会の中で、いづれ紹介していこうと思う。
私は、今朝、目覚めたとき、この男のことを、再び考えた。
巨大迷路という遊戯施設がその昔あったのを覚えているだろうか。
私は、このブログの冒頭に人生はゲームなのだと感じていると書いた。
それは、ちょうど私たちが巨大迷路の中にいて、しかも硬直した世界ではなく、
3Dのバーチャルゲームのように、突然、通路を塞ぐ、対象物が現れる。
その対象物をどう乗り切るのかが、ポイントを稼ぐチャンスだ。
そう思うと、昨日、私の眼の前を平然と立ち塞ぐ無礼な男も、私のゲームの中のキャラクターの一つだったのだなと、妙に不思議に思った。
ただ、忘れてならないのは、この人生ゲームは、必ず、因果の法則に基づいているということだ。この男が立ち塞がったのも、私に理由は分からないが、単なる無礼ではなく、私自身の記憶にないある「原因」を表す「結果」なのだろうと思ったことだ。
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