なぜ私が、フィリピンに共鳴し惹かれるのか。最近になって、
つくづく考えるようになった。
そしてあることに気づくようになった。
それは「心のスラム化」と、その投影ということにある。
当サイトの「フィリピン訪問記とあれこれ」のブログ記事にも書いているが、
フィリピンの二極化、つまり貧富の差について述べた個所で、
私の心の内部には、高層マンションに住むあこがれと、
貧しい人々の階層と人情や交流のそのどちらにも、
心が共鳴し馴染みやすい”何か”があるというようなことを記した。
その時もそうだが。いまここで、再びそのことを書いても、
私自身の気持ちをうまく表現できていない。
私の心の中で沸々とする気分が、案外、複雑なのだ。
あえて非常にザックリした表現で気分を表せばす、どちらも好きだという言い方になる。
そしてその矛盾は、豊かさを求めるという意味では、とても「マズイ」と感じている。
どうマズイのかといえば、もし私が「豊かさ」を追い求めるなら、
豊かさだけにフォーカスしていればいいのであって、そのような心構えにだけに
集中し、照準を合わせていなければならないからだ。
なのに、
私は、フィリピンの下町の景色やムードというものが受け入れ可能という
ようなレベルで捨てがたく好きなのだ。
貧しさにあえいでいるかのような惰性に満ちた街並み。
今にも崩れそうな家屋や
およそ
修復・補修など考えたこともないか、
考えたとしても先立つその余裕がなく、時の経過とともに、
なすがままに古びたか。
色あせた外壁などの家がギッシリとそのまま立ち並ぶ豊かさに程遠い街。
さらに仕事もなく、道路に人があふれている様。子供たちも多く、
また、
素足のままの子らもいる。子供たちは、群れており、
どの子もそれなりに明るい。貧しさが苦になっていない。
子供であることを楽しんでいるそんな風情を感じる明るさがある。
一方で、
私は、フィリピンが好きなので、いづれグリーンヒルズと呼ばれるような地域、
あるいはマカティやケソンなどの地域に住みたいと思っている。
豊かさの象徴であるロックウエルタワーの高層マンションに住めるような
豊かさが欲しいと願っている。彼女も私に同調し、そうなることを神に祈っている。
ところが、2005年に始めた事業に、躓き、わずかな借金を抱えた。
それは、およそ5年弱で、
ほとんどの借金を白紙に戻すような返済ができた。
そして、
いよいよこれからは、プラスに向かってというとき、
今度は上昇にむけて気負っていた時に、再び、逆風に呑み込まれた。
私のビジネスは、ネット通販で、教材を小売り販売する細やかなものだった。
ネット頼みの事業だったため、一旦、ネットでの状況が思わぬ形で荒れると、
途端にビジネスが立ち行かなくなることを体験した。
それはある意味、予想はしていても、「まさか」という不意を突かれた。
一度失敗しているので、未払いの借金がわずかなうちに、
関係者に相談し、こちら側から返済計画を提案をする形で救済措置を求めた。
同じ関係者に2度の迷惑をかけたので、
さすがに怒りを含んだ非常に厳しい処分を受けた。
ほぼ息の根を止められたといってもいいほどになった。
結果、ビジネスに面白みがなく、毎月、返済だけするのがやっとの状態が、
ここ数年続いた。
私は、不運の波に飲み込まれたのだなと思った。
この体験を経て、つくづく感じたことがある。
それは、私の見ている風景は、私の心の投影なのだなと。
心のスラムとその淀みが、私をフィリピンに招き寄せたのかももしれないと。
つまり私の心の中にある矛盾が、
豊かさと貧しさのそれぞれに同調しやすいその矛盾が、
いまフィリピンの二極性に共鳴する理由となっているのではと。