本日のタイトルは、
「夢見」に落ち着いた。このブログの軸にあたるテーマ・タイトルでもある。
なぜ、私は「夢見」という言葉にこだわるのか。
それは、この現実が、どれほどリアルな体験であったとしても、所詮は、
すべては幻想であることに由来している。
はっきり言っておきたい。あくまでも私の解釈であり、仮に私の解釈が不十分だとしても、
それは、「夢見」の掲げている書籍の読み込みの足りなさによるものだと率直に認めた上で、ともかくも、私は、「夢見」の出所のリアリティ・トランサーフィンの概念に影響されているという事実だけは申し上げておく。
そうした中から、
このブログにアクセスしていただいている皆さんにおいては、
何かしらトランサーフィンの概念は、
何か、とんでもなく魅力の有りそうな書籍なのだなと感じていただけたら幸いである。
時間がないということで、
急いで、テーマを詰めたので、十分な吟味もされていない。
稚拙な私の解釈の次元で、
正確性を欠いているかもしれないという言い訳をさせていただいた。
それでも、トランサーフィンの不思議な概念は、魅力が褪せることはなく、
却って、際立つことだろう。
☆ ☆ ☆
夢見(この世)の言葉が、キチンと章の中で、取り上げられているのは、シリーズ巻を通じて、
「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)第4巻・第2章だけではなかったか。
ところで、
この本の副題は、シビレルほどに度肝を抜く。
「リンゴが空へと落下する―奇跡の願望実現法」という副題だからだ。
ゼランド氏の本の特徴は、
常にこうした意表を突く文言が、ポイント、ポイントで悩ましさを含ませて出てくる。
少し、余談になってしまったので、話を戻そう。
夢見(幻想で捉えているこの世=物理的現実)をなぜ取り上げようと思ったか。
以下の引用に、そのすべてがある。
第2章は、ページ全体を黒く施した裏表紙に、次のようなメッセージがある。
「神は各生き物と魂を一緒に自分の意図の一部を組み込み、
夢見―この世―へと送りだす。
私たちの世界は、夢見の劇場であり、
そこで神は、観客、シナリオライター、舞台監督、俳優を同時にこなす。」
(「トランサーフィン『鏡の法則』」より引用)
このメッセージに
ゼランド氏は、「この世」を「夢見」なのだとしていたからだ。
私は、この「夢見」に大いなる興味を持った。
夢見(この世)を理解するカギは、バリアントの空間の概念にある。
バリアントの空間とは、ゼランド氏の概念として、
私たちの人生ライン(人生のシナリオ)が、無限数内包された空間だということだ。
私たちは、常に選択をするとき、同時に、消化不良を起こす。
つまりそれは、「あの時、もし別の違う人生を選択をしていたら…」という、
その意味においての消化不良だ。
これは、単なる仮想レベルのシュミレーションの違いでなどではなく、
私たちがある分岐点で選択しなかったために、
現実化されなかった他の私たちの人生のシナリオが、
実は事実として存在し、
なのに分岐点での選択において、都度、捨ててきたために起きている消化不良なのだ。
そのバリアントの空間こそは、魂が、夢の中で、飛遊をしている空間であり。
そして、魂と理性が一致をみたとき、そのバリアントの空間では、
魂がスポットをあてて選択したセクターが現実化されるとされる。
現実化とは、文字通り、私たちがいま体験している現実そのものをさしている。
私たちは、夢を現実と対比してまったく別物と思っているが、
ゼランド氏の概念によれば、実はそうではないのだ。
つまり、
夢の中で見る単なる夢は、理性が創造した理性の余力のような産物なのではなく、
バリアントの空間で各セクターが内包しているシナリオを、
魂が覗きみたものなのだということがわかる。
単なる夢も、現実もバリアント空間のおいて現実化されたか、そうでなかったかの違いはあるが、元は、同じものなのだ。
そして、
そこから次のような解釈も成り立つのだ。
「夢は、ある意味、現実生活でも続いている」
(「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」
ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店 p88)
私たちは、実は、覚醒しながら夢を見ているという事実を知らされるのだ。