夢見心地☆ジェルソミーナの憂愁 ★20#0389

フィリピン-ピリピン

数年前のある日のことだった。その日の日和は、めっきり春めいている。
都合で、昼に区役所へ行った。少し、せかせか歩くと、汗をかく。
とある駅周辺の行き交う人々の表情もどこか、春の兆しを感じて軽やかだ。

用事は、思いの外、すんなり済んだ。

私のいる居住区の近くの公園に差し掛かると、やや勢いの落ちた桜が、花を散らしている。
その桜の下では、子どもたちが遊んでいる。親子連れも目立った。
私は、まだ郵便局へ行く用事があったので、その風景を横に眺めながら、

公園の角を回り込んだ。弁当売りのワゴンの車が、客待ちをしていた。
後部の扉を目一杯に開けて、弁当を並べていた。
昼も大方過ぎているので、客は既に引けており、
弁当売りのおばさんが、荷台にチョコンと座っている。

何を考えるでもなく、ぼんやりしているふうだ。私と一瞬、顔があったが、
相手は、私を客とは思わなかった。事実、私は、急ぎ足で、その傍を通り抜けただけだ。

私は、ふと、その荷台に暇そうにぼんやり座っている。おばさんの全体の様子から、
イタリア映画のフェリーニの「道」の1シーンを想い出していた。

バイク付きの荷台後部から、主人公のジェルソミーナ(映画では、純真無垢な貧しい頭の少し弱い女として登場する。荒くれ男の大道芸人ザンパーノにささやかなお金で買われたという設定になっている。)が顔を覗かせているシーンだ。
その表情がなんとも愛くるしい。

大道芸を終えて、いま町を去る時、
ジェルソミーナは、自分たちを温かく迎え入れてくれた人々に、
別れをさみしそうな笑顔で返すその印象的なシーンがあり、それとダブらせて想い出していた。

そのおばさんとジェルソミーナの設定のシーンとは、
どう値引いて見ても、あまりにも似ても似つかないが。

それでも、
自動車の後部、荷台におばさんが何気なく座っている様子の全体のシルエットの構図が、
何となくであるが、その映画の1シーンに似ており、それが呼び水になって、
私の記憶がいま激しくフラッシュバックしたらしい。数カットが、連続的に閃いた。

その荷台の中のジェルソミーナの顔のアップのシーンは、
映画の「キー・ヴィジュアル」でもあるのだ。
したがって、劇中では、何カットか、あえて極めて意図的なほぼ同一のアングルで、
ジェルソミーナな表情が描かれている。

まるで、動く絵画のようだ。

それは、フェリーニ監督が、天才的な描出を得意として、
観客の私たちに、
ジェルソミーナの時々の心情を汲み取らせようとしたものなのだ。

人それぞれの人生の「道」があることを。
場面場面の喜怒哀楽を知らしめるための意図した構図なのだ。

ほぼ同一の構図のシーンは、数場面がある。

ジェルソミーナの運命が荒くれ男の夫との関係において悲嘆へと変わるたびに、
彼女の顔からは、やがて笑顔が消えて曇っていく。
この映画のもっとも重要で印象的だったのは、映画後半のシーンだ。

夫・ザンパーノが起こした暴力事件で、同じ芸人仲間を偶発的に
殺してしまった夫の罪に、ジェルソミーナが苦しむ。

頭の弱い女ながら、みるみる正気を失っていく様が見事に描かれている。
荷台の中で見せるジェルソミーナのエンディングへ向けての末路の顔はあまりにもの悲しい。
なぜなら、人殺しの夫の罪に苦しみ、たったいま気もそぞろの大道芸が終わり、無神経な夫ザンパーノでさえ、彼女のあまりの精神にきたしている変化は、さすがに重荷に感じていたのだ。

ジェルソミーナは、道化姿の道化メイクを落とすこともできず。
悲しげな顔してそのバイクの荷台の後部から、外を眺めている。
私たち観客にその表情をアップで見せるシーンがある。

そのシーンは、圧巻だ。観るものの胸を打つ。

そこで、ハンカチは、4枚目が必要になる。
ついに気がおかしなってしまうジェルソミーナは、ザンパーノの足手まといになり、
やがて彼女を、とある港町で置き去りにして彼は逃げてしまう。
野蛮な男の末路は、こういうものだということを知らしめる。

映画は、この後15分ほどで終わる。
結末は、決してハッピィー・エンドではないし。むしろ、悲しくてやりきれない映画だと
さえ思っている。

しかし、この映画は、ハッピーエンドに代わるもっと大きなものを、
神が贈り物をもたらしてくれたと思っている。
どんな結末化は、ご自身でご覧になるといいだろう。

この映画の記述は、ここまでにしたい。

なぜ、このブログのタイトルを、私がジェルソミーナの憂愁としたか。
実は、まだまだ至らない私自身の内的心情をよく著しているのだなと思っている。

自動車の後部で、弁当売りの暇そうにしているおばさんの様子とその構図から、
この映画をあえてフラッシュバックして思い出したことは、
おそらく私自身の何かを問う心の投影なのだろうと思った。

このことがあった日、あえてこの話をブログに書かなかった。自分の中に、未整理なネガティブな感情や心情が、ふと垣間見えたからだ。

それから2-3日が経って、
このジェルソミーナの物語を改めて見つめなおしたとき。…。
多面的に思う中の一側面をあえてピックアップして述べているのだが。
私は、無意識に「憂愁」という言葉の中に「シフト」の概念を含めていたのだなと気づいた。

ジェルソミーナは、置き去りにされた港町の海岸で、しばらくして寂しく死んでしまう。
それは、あくまでも映画のストーリーのことで。

承知の上で、妙なことを言うが、
あえてこのストーリーに入り込んで考えたときという前提でいうが。

この物語の物理的次元から見たときのジェルソミーナの死は事実だった。
しかし、彼女の次元から見たとき、それは、パラレルな世界へのシフトなのだと気づいた。
彼女の固より純真で気高い心情に同調する世界へシフトしていったのだ。

つまり暴力でなんでも解決を図る荒くれ男のザンパーノといる次元の物理的次元には、
どうしても分かり合えない違和感があって、それが、シフトに「憂愁」という思いの衣を着せた。結果、この次元では、ジェルソミーナは、病死というカタチをとってシフトしてしまったのだ。

こんなことを言えば、
私自身の正気を問われるかもしれない。そう思う方は、それで結構だ。

だが、批判でなく言えば、その方たちは、人生の「もし、あのときに何々したら…」という、
別の選択をした自分について、一度も考えたことがないのだろうと思う。

その”もしも、あの時”という別の選択をする自分というものに対して、
その考え幅を持ちえるということ。それは、一体、何を意味し、どういうことだろう、
何だろうと思うとき、私たちは、物理的現実に一面的に存在しているのでないのだろうか。

そう思うとき、
多面的世界。パラレルな世界というものを念頭にして、現実を問うということがあっても
良いのではないかと思ってしまう。所詮、私は変わり者の戯言として、そう思うだけだ。

この考え方になったのは、物理的次元というものに、意識的になり、この物理的現実は、
私たちの意識世界の内面の投影つまり産物であることを認め、認識し始めた延長線上の
当然の帰結としてある。

もし、そんなバカなと思う方があれば、私はあえて言う。
この物理的現実が、意識の投影、思考の産物でないとするなら、私の周りにあるものは、
一体どうやって存在しているのだろうと、問いたい。
自然に実を結んだりんごの果実のように、ただ何となく木に実を結んだ偶然の産物だったろうか。

否、すべて、意図されて思考した結果の産物なのではないだろうか。



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