私の、最も関心の深い問題のひとつは、私たちの深層内部で巣食う「思い込み」だ。
実はこれはとても厄介なものだ。
成功法則の中では、何らかの形で語られている問題で。
あの「ザ・シークレット」にも登場しているジョー・ヴィターレ(ヴィタリーあるいは
ビタリー)博士も、彼の著書「宇宙スィッチ」(住友 進[訳] サンマーク出版)で、かなりのページを割いて書いている。
彼の「思い込み」の抽出の仕方や「思い込み」についての関連記述などはシンプルながら鋭い。
私は、前述著書の文脈から、自分の深層を顧みるなり、やや「ズキッン…」と来た。
特に、以下の記述は示唆に富んでいる。
「自分の意思を知り、意識を鮮明にするのには、もうひとつ理由があります。自分の意思を鮮明にしたとき、願望を妨げているものの正体に気づくようになります。」
(「宇宙スィッチ」住友 進[訳] サンマーク出版 より引用)
とは、
私たちが、願望として心に抱きながら、その願望が、なかなか叶わないとする人たちへのその原因のあぶり出しの方法であり、願望実現の妨げになっている対極の姿をあらわにできる瞬間を指摘している。
前出の引用の続きを紹介すると、さらに意味が分かりやすくなると思う。
「あなたは多額の支払いから開放されるために家のローンを一度で完済したいというかもしれませんが、『家のローンを完済するだけのお金が稼げない』『今までそんなことをした人間は誰もいなかった!』『両親にどう思われるだろう?』といったあらゆる異論反論が、突然、頭の中に浮かんできます。」
(「宇宙スィッチ」住友 進[訳] サンマーク出版 より引用)
というように、目標なり、願望が、達成できない口実が、その対極として浮き彫りになるということだ。
またジム・ドノバンも
「誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功法則2」(桜田 直美[訳] ディスカヴァー)の≪第2章 思い込みの壁を壊す/4・ 自分の思い込みについて知る≫の章ほかでも、やはり、章のくくりにして、記述をしている。
「人は自分で望む物事をすべて手に入れることができる。
それを邪魔するものがあれば、それは自分についての思い込みであり、
自分の能力と自分が住む世界についての思い込みだけだ。」
(「誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功法則2」ジム・ドノバン[著] 桜田 直美[訳] ディスカヴァー より引用)
彼も、願望の実現を阻むものが、自分自身に巣食う「思い込み」であると深い関心を示している。さらに”思い込み”の根ざしているところも分析している。
「思い込みとは、あなたがずっと考えていること。または何度も自分に言い聞かせてきたことである。思い込みは子供のころから形づくられる。」(「誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功法則2」ジム・ドノバン[著] 桜田 直美[訳] ディスカヴァー より引用)
と述べている。
私は、前述、2人の賢人の思い込みについての記述に敬意を払い、
ありがたい示唆を受けつつも、
また、私は私なりに「思い込み」の意味することころを強く感じていることがある。
それは、
聖書で語られるマルコの福音書11章 23-24節の ”思いが「山が動かす」”というイエス・キリストの言葉に代表されるように。
信念で山が、ほんとうに、しかも物理的に動くかどうかを信じられるかどうかを、聖書の時代からすべての人に向かって投げかけ、その信仰の度合いを試されてきた問題でもある。
その意味で、前述の話と、深く根っこで通じていることだとも思っている。
私自身は、特別な信仰は持たないが、それでもイエスが存在した理由やその意味について畏敬の念を感じ、不思議な存在であると受け止めている。
また、思いの強さが「山を動かす」ということについては、どんな問題も熱心に取り組めば必ず内なる力で、解決できるのだという至極もっともなレベルの比喩として語ったのではなく、文字通り、ほんとうに動かすことができるのだという教えとしてなされたもの。つまり物理的に動かすことができることだ。
常識では、とても信じ難いようなことをあえて、信仰の度合いを量る試金石にしているものなのだと受け止めている。
イエスの教えのように、物理的な限界の捉われを捨てて、それは、確信しなければならないと思っている。
しかし「そんなことがあり得るんだろうか」という心の裡でささやかく疑念を感じ、私自身も揺れ、常に試されているのだとも識っている。
その奇跡が充分に腑に落ちるところまで、信仰を持ちきれていないことが、いま私の成功法則への学びの動機にもなっている。
もとより、生命の不思議を考えれば、「山を動かす」物理的なレベルは、その比ではなく、まったく取るに足りない、たいした問題ではないのだな…と、ふと、いま思う。
前述した2人の賢人は、ともに、その思い込みについては、捨てるという解決法を述べているが、それでは、不十分だと思っている。捨て切るための方法を、私自身、常に見いた出していきたいと思っている。
今後も、この私たちの願いの邪魔をするこの「思い込み」については、悉くに関心を持ち続けていこうと思う。