私が、バイブルのように大切している本がある。
「【振り子の法則】リアリティ・トランサーフィン」
(ヴァジム・ゼランド【著】 ほおじろえいいち【監修】須貝正浩【訳】徳間書店)だ。
その本の第1巻 冒頭p24ページに、
「明け方の星々のざわめきで目が覚めた。」という書き出しに
改めてワクワクする。
この短い文章には、実に深い意味の示唆が潜んでいる。
字義どおりの単純な記述などではないことを、
事前に申し伝えしておきたい。
「この明け方の星々のざわめき」の時間帯とは、
明け方の明星が輝きはじめる。
おそらく、午前3時過ぎぐらいから
4時半ぐらいの時間帯をさすものと思われる。
この本の信奉者である私は、
件の時間帯に目が覚めることを特別にありがたく思っている。
なぜなら「まるで、あの頃と同じだ!」と小躍りしたい気分になるからだ。
とは言え
あの頃の未明の”時間帯”とは、私にとって、決して愉快な時などではなかった。
むしろ、骨移植の手術後、思いがけず医者から、
「もしかしたら、死ぬこと…もある?」と
宣告されて、成り行き次第では覚悟も必要であることを、
突き付けられたあとの事だった。実感はないものの、考えがそこに及ぶと、
胸に鉛のようなものが、貼りついたような感じに襲われた。
あの頃の時間帯とは、
その頃に体験した眠れない日々の頃のことだった。
当時、私は、右足のくるぶし付近にある「舟状骨」という部分に
腫瘍の黒い影がレントゲンで確認された。
その判断と説明を医師から受けると、
逃げ道はなく、選択肢もなく。突き付けられた同意書にサインをして。
あれよというまに手術台に載せられた。25才のときだった。
その術後2週間ほどで、病院長から「7:3だな…」と、
どっちが、どっちとは、明言は避け。
さらに
「覚悟について」直々の話しを聞かされたという経緯がある。
あれから数十年間。
私は、医師らの予想に反して図々しく生き延び、
現在がある。
当然、成り行きの私は、健康でもあり続けた。
とはいえ、
「覚悟はせよ」との話のあった当初の5-7年間は、
ある意味死刑囚のような気分だった。
再発による死への恐怖心を常に抱きつつ若い時代を生きた。
今日、ありがたいことに、それでも両足は立派にある。
元気そうに颯爽と歩く私を見て、
かつて誰が、私のこれらの話しを真に受けただろうか。
誰もいない。
おそらく作り話か、誇張話だと思っているに違いない。
私は、その頃のことを、あまり多くを語らなかった。なぜなら、
誰も、私の抱えていた深刻な問題を信じないだろうと思っていたからだ。
「明け方の星々のざわめきで目が覚めた。」という時間帯は、
私にとって、暗い記憶と隣り合わせであったが。
この時間帯こそは、私を生き延ばしてくれた秘密を含んでいたことを、
後に気づかせてくれた。
冒頭に”この短い文章には、実に深い意味の示唆が潜んでいる。”
と書いた。私なりの気づきをお知らせしたい。
「明け方の星々のざわめき」とは、
眠りの底に沈んだ後、浮き沈みする意識が、潜在意識と対話する時間帯なのだ。
常に意識がしっかりとした目指すものを抱えている場合には、
ざわざわとする潜在意識の中から、
目指すものへの方向への到達をサポートする「何か」を手にすることができる。
しかし、意識が日頃より曖昧であると、
その雑多なものの考えの中の曖昧さの力関係で、進む方向が制限を受けることになるようだ。
私は暗闇の中、病院の大部屋で、
ふと目が覚めた瞬間に、
カーテンの閉められた窓が、一刻も早く白むのをひたすら待ち続けた。
腫瘍の再発による”死”を考えないようにしていた。
そして、
もっとも多くやっていたのが。
かつて私が住む品川の街をよく歩いていたときの
ワクワクする感じだけを楽しんでいた。街歩きが好きだった。
街から街、商店街から、商店街を歩く姿が、とても懐かしく。
何か満たされてはいなかったものの、街歩きする私は、
自由で、楽しいものだったのだなと暗闇の底で、
確信するように思い返していた。
これを
「明け方の星々のざわめき」の中で、つまり、
浮き沈みする意識が、潜在意識と対話する時間帯にやっていた。
いまはっきり言えるのは、その繰り返しが、私を生かしてくれたのだと思っている。
潜在意識が、私の意識の在りどころをすっかり見抜き、
飲み込んでくれたのだ。
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