私たちは、物理的現実に、私たちの望んでいるものを現出したいと願う。
あるいは努力する。
だが、その思いや目論見は、概ね期待通りにいかない。
むしろまったく逆に
「望んでいない現実」を招き、これでもかという具合に不快な現実を味わうこともある。
自身のことでいえば、私は、この春に、お金にまつわる綱渡り状態を毎月のように体験するなかで、いまそれを振り返りながら、つくづく気づかされたことがある。
しばらくぶりで記述するこのブログに、そこから得たものを書いてみたいと思う。
詳細を書くことは避けさせていただくが、一例で言うなら、お金に不足を感じているとき、
しかも、そこに不安や疑念に捉われたフォーカスが向けられている間は、
望まないことが次々からへと押し寄せてくることを、文字通り体験的に知ることになった。
私が、実感として知ったことは、この物理的現実に関して言えば、
極めて単純な物理法則が支配しているということに気付かされた点にある。
それは、このブログで何度も触れてきたが、
「原因」と「結果」の法則が、それだ。
この法則は、どんな状態や場面にも、その法則が貫かれているという気づきだ。
例えば
時間と空間といういわゆる物理現象でさえ、
見方を変えれば、
時間は、「原因」で、空間はその「結果」だとみなしてもよいと考えている。
バシャールは、時間は、そもそも幻想で、シフトに付随するものだと言う。
ならば、やや乱暴かもしれないが、
”時間”そのものをシフトとみてもいいと思う。
そして、
シフティングした”結果”として、一つの「空間」が生じるという理解。
私は、物理学者ではないので、論理的にはデタラメで間違っているのかもしれないが。
そこはお許し願いたい。
ただ、そういう見方をしても、
文系的な解釈から言わせてもらうと同様に見ても良いのでは、と勝手に感じている。
「原因」と「結果」の法則に話を戻そう。
私は、この3Dの物理的現実を、形而上学的な概念から、
心の内面的な状態が、外的世界(物理的現実)を構築しているという立場を支持している。
その意味で、私たちの心の状態こそが、外的世界の「原因」となり、その反映を「結果」として、物理的現実として投影しているのだと信じている。
このことを踏まえたとき、次のような考えが浮かぶ。
私たちの願望は、心次第だと。
そして、この立場をとる限り、それは正しい。
実際、私たちは、望む現実を創出するために、念じ願う。
心に望む現実を描き、
それを「原因」にして、外的世界に望む結果が得られるはずだから。
ところが、実際は、簡単にそのように、ならない。
このブログの冒頭に書いたように、
むしろ、リアリティがあざ笑うように、全く「欲しない現実」をもたらすことがある。
いや大概は、
そうした場合が多いに違いない。
しかし、上述した「原因」と「結果」の法則は、それでも見事に働いているのだと
指摘しておきたい。しかも私たちの願うままを忠実に、希望どおりになのだ。
このように言えば、異論があるだろう。
欲していない現実に翻弄されて、何が、希望通りなのだと言えるのかと。
その指摘は、まさしく、その通りだ。
しかし、それでもあえて私は、見事に宇宙は「原因」と「結果」の法則を、
私たちのために、正確に返してくれているのだと指摘しておきたい。
この指摘の意味を記述する前に、
トランサーフィンシリーズの第4巻
「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)のp25の後半から次の箇所を引用させていただきたい。
「人は『自分の欲するとおりに』なるよう努力する。そして
『顔を向けたほうへ行く』『押せばたわむ』という簡単な世界に
当てはめようとする。しかし、なぜか世界はそれに従おうとはしない。
それどころか、人が顔を向けた方向とはまったく別の方向へと
運ばれてしまうのだ。」
この引用には、私たちの願望に対する鋭い洞察と示唆が含まれている。
しかも、
「『押せばたわむ』という簡単な世界に当てはめようとする。」
という記述には、上述した「原因」と「結果」の法則についてさえ、
なぞりをイメージしやすいように物理的に説明している。
「望まない現実」「欲しない現実」が起きるためには、そもそも、すでに私たちが「原因」創り出しているということだ。
つまり、
望む現実を願った時点で、宇宙に「原因」を表明し、創出を願ったということだ。
そして、
宇宙は、あまりに原理原則どおり、私たちの願うとおりに「心の内面」を現実化してくれる。
そもそも望むことがなければ、
宇宙は、何らかの結果をもたらすことがないのだ。
それが結果として、
私たちの意識が「望まない現実」「欲しない現実」になってしまうのは、私たちの潜在的な「心の状態」そのものに実は、問題があるからなのだ。
あるいは付随して、トランサーフィンの各巻がシリーズの中で指摘しているように、
過剰ポテンシャル、重要性、依存関係等を生み出し、それが過剰な期待に対するバランスをとろうとして、逆の反作用の結果を見せつけてくることにある。
ゼランド氏は、同著の中で、次の指摘をしている。
「もしリアリティのふるまいが期待にそぐわないのであれば、
別のアプローチを取らなくてはならないだろうということだ。」
(前出:p25-26)
その方法として、次のような示唆もある。
「請わず、求めず、苦労して勝ち取らず、創り上げるのだ。」
(前出:p163)
と。