夢見心地☆選択する意図だけが意味をもつ ★19#0045

枝ぶり 夢見空間

どちらにせよ、私たちは意識的な存在なのだ。
その意味で、充分な根拠をもって言うわけじゃないが。

非科学的に、直感的に言わせてもらうと、

私たちが仮に夢見状態であろうと、目覚めていようが、
そのこと自体はあまり意味がないように思えてならない。

もしそこに、ちょっとした違いがあるとするなら、
所詮、肉体が睡眠の中で、寝ているか、つまり一時的に休んでいるどうかだけなのだ。
私たちの意識は、バリアントの空間を漂い、次から次へと、無意識的に現実化を育んでいる。
多くの場合は、たった今踏み硬しめたAというラインに対し、
ほとんど違いの見られないA’的なラインを、
ポジティブな波長によってか、あるいはネガティブな波長によって、
その方向づけをしながら、私たちは辿ることになる。

そのたったいま現実化されたことで、あまりにリアルな物理的な現実に対し、もし、私たちが無条件に信奉するか、あるいは物理的な現実への強い信仰が作用すれば、私たちの意識空間の物理的創出の働きをいよいよ曇らせることになる。

私たちにとって、重要なのは、意図的になれるか、どうか、だけが意味をもつ。

意図的というのは、選択の自由の中で、意識的に選択するということだ。

ヴァジム・ゼランド氏の著書「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)には、次の記述がある
この第2巻の冒頭には、著者の重要なメッセージが、抽出され、ノートされているのだ。
その中の一つに注目したい。

    「願望自体は何ももたらしはしない。選択する意図だけが意味のある
     ことなのだ。選択とは願い事ではなく、所有し行動するという
     決意である」
   (「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」冒頭ページより)

「選択する自由」「選択する意図」とは、何か。

選択する自由とは、無限数のバリアントの空間を所有しているということだ。そして、選択する意図は、それを意識的にコントロールし、望む現実化を図ることを意味する。

なぜ、選択する自由があるのか。

それは、バリアントの空間のそもそもの属性なのだ。
つまり、無限数にあるということは、意識的であろうと、無意識的であろうと、
私たちは、どちらにせよ、選択するということになる。

こんな例を考えていただこう。

一方が削られた鉛筆があって、今にも、使ってくださいとばかり主張する鉛筆が、無限数あるとしよう。その時、私たちは、無限数あるということによって、その制約の中で、早晩、選択をする羽目になる。

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