夢見心地☆映画「マトリックス」を観た ★19#0166

天王洲 isle夜景 フィリピン-ピリピン

何年かぶりで、ふと映画「マトリックス」を観たくなった。
私は、かつて映像制作に携わっていたものとして、この映画を当初、あまり評価できなかった。
確かに、カメラアングルは斬新で、特に3D的な回り込みというコマ撮りの手法を取り入れた特撮は、新しく目を見張った。

その後のTVCMなどにも、真似た手法がいくつかあったことでも、この手法は、トレンドになった。そして、映画全体は、やはりスタイリッシュで、おしゃれでもある。
特にキアヌ・リーブスが、カッコよくてとても良かった。
マトリックスというシステムの仮想現実に入り込むという設定も面白かった。

なのに、私の中では、B級以下だった。
なぜか。システムの監視プログラムであるエイジェントとのアクションに力を入れすぎて、
本来の魅力ある内容へのツッコミがあまりに足らないからだ。説明不足か。
ここに面白さがあったのに、映画製作者は、避けてしまったようだ。

結果、内容は、どちらかと言えば、希薄。
マトリックスのこの世界についての何故?が、
もっと、説明の欲しいところで、そこが、あまりに中途半端だったのだ。
だから、なんだか訳が分からず、当時、観たときは、まったく評価できなかった。

残念な気がしていた。

もっと深い概念性を帯びておれば、私は、今より、もっと、
パラレルな現実というような概念に深い関わりをもてたかもしれない。
ほんとに残念に思う。もっとも私に、その準備が出来ていなかったのかもしれない。

せっかく、その機会の入口に立てていたのにだ。しかし、映画は、
それを後押しし、促してくれるほど、お世辞にも、レベルが高くなかったのだ。
なので、私にしてみれば、良いとこ満載なのに、「ふーん」ぐらいの感じだった。

で。なぜ、今回、映画「マトリックス」を観たかと言えば、再評価してみたいという気持ちがあった。それは、とりもなおさず、
トランサーフィンの影響だった。

実は、この著作の2-4巻を通して、3-4回ほど、映画「マトリックス」について触れられているからだ。おそらく、
トランサーフィンの著者、ヴァジム・ゼランド氏は、当時、ゼランド氏の概念性において、
この映画の世界観やモチーフを、それなりに評価したのだろうと思う。

しかし、ゼランド氏も映画「マトリックス」の名を出すには出すが、もう一つ、私の印象では、
映画としての充分な評価を与えているというようには、どうしても受け止められなかった。
だが、気にはなっていた。

それで、改めて、映画「マトリックス」を観てみようと思ったのだ。
で、今回も、内容は、やはり面白いと思ったが、
それでも全体の評価は、私としては、変わらなかった。
B級だ。やはり譲れないB級だ。

だが、ゼランド氏が、この作品から、何か、感じるものがあったということは、
映画のセリフやシーンのちょっとした場面に感じることができた。

特に、冒頭のシーンだ。それについて、触れておこう。

キアヌ・リーブスの役柄は、昼は、ゲームソフト制作会社のプログラマーとして一社員という顔を持つ。一方で、夜は、Neoを名乗るハッカーとして、やばい仕事で生活の糧を得るという2重生活の設定だった。

その夜の顔を持つ彼に依頼していたやばい連中が彼(キアヌ)を尋ねてきて、
金と引換えに成果のデータを受け取るシーンがある。冒頭8分過ぎのあたりだ。

そのシーンの少し前、彼は、PCの前で眠りこけていたが、突然PCが起動し、
ディスプレイ上でカーソルが動き出し文字の表示がなされる。その入力は、彼(キアヌ)に
「起きろ」と促すもので。加えて「マトリックスに狙われている」という警告を受けた。

そんな眠気がまだ漂う中、真夜中に彼を訪ねて誰かが来た。
やばい連中を相手に、Neo(キアヌ)が次のように言うシーンがある。

  「自分が起きているのか。夢を見ているのか分からないことってないか?」
           (映画「マトリックス」より引用)

このセリフを聞いたとき、私は、「トランサーフィン」の第2巻(「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択 :ヴァジム・ゼランド[著]ほおじろ えいいち[監修] 須貝正浩[訳])を強く意識した。

似たような言い回しがあったことを、ふと思い出したからだ。
この映画がロシア語で、どのように翻訳されたか分からないが、もちろん、基本的には、日本語訳の理解と似たニュアンスであることは間違いはないだろう。

で、そのロシア語版/映画「マトリックス」を観た、ゼランド氏は、この映画から、
何らかの概念構築のモチーフを得たことは、
容易に理解した。おそらくこのセリフから、ふと感じるものがあったのだろう…か。

第2巻は、第1章から、「夢」の話からスタートしているのだ。
この章は、大雑把に言えば、夢見ということが、願望実現と何らかの関係性があることを、
明かしており、意識して見る夢の重要性とともに語られている。

   「なぜ、私たちは欲しいものを選ぶことができるのか。そして、
    それは、どのようにすればよいのか。」

    と述べ、その 
   「謎を解く鍵のひとつは、夢を見るという現象の中にある。」
    (「前出「トランサーフィン」: 第2巻より引用)

と述べている。そして、
その夢見の延長線上に、自分が目覚めているのかどうかについて、

   「眠っているのか?起きているのか?」
    (前出「トランサーフィン」:第2巻 p32-33)

ということを、
自身に問いかけることの必要性を説いている。

その詳細については、いづれ書かせていただこうと思う。

        ☆ ☆ ☆

【フィリピン・夢見メモ】
私にとって、意識して見る夢見の中に、フィリピンの夜の底を幻想的で美しい輝きを見せている教会があった。それは片田舎の田んぼの中だった。「あれは、どのあたりなのだろう…?」はじめてのフィリピンで、街道の道中で見た場所などわかるはずもない。それでも、いづれ私は、再び、あの風景を見るために夢見を続けようと思った。必ず、あの世界に酔いしれたい。



★戻る | ★前日の記事を読む

★過去リンク
夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

タイトルとURLをコピーしました