私は、非科学的な立ち場の者であり、どちらかと言えば、その考え方をしている。
というより、受け入れている。
少し具体的言うと、トランサーフィンの考え方で説明されているバリアントの空間や
バシャールの言う、パラレルな物理的現実が存在するとする考え方を前提として、
受け入れている立ち場だ。
私の態度について、非科学的な考え方と冒頭書いたが、
トランサーフィンの著者であるヴァジム・ゼランド氏の経歴は、知っている方も多いと思うが、
元量子物理学者だ。
トランサーフィン・シリーズの著作も常に元量子物理学者というだけあって、中味は、かなり抽象的で難解な説明が多い。しかも説明には、かなり厳密な科学的な態度を持ち込んでいる。著者の態度は、常にそうあろうとしていることだけは、よくわかる。少なくもゼランド氏の言うことを、非科学的と思うことは一切ない。
私は、そんなことを言う権利もつもりもない。むしろゼランド氏のトランサーフィン的な考え方に影響を大いに受けた一人でさえある。
非科学的というのは、私自身の態度についてのみ限定して言っている。
私自身、科学者でもなく、ただひたすら賢者のメッセージを理解しようと、
ただ著作を読みあさっているだけに過ぎない。であるから、私の言うことは、前提として、
科学的だとは言えない。
単なる受け売りを著者たちのメッセージを借りながら言っているに過ぎない。
だが、それでも私なりに、理解できたことを、私自身のその驚きを、皆さんに伝え、著作から引用したものの中に、皆さんの心に何かしら響くものがあれば、こんな素晴らしいことはないと思っているだけだ。
私が、トランサーフィンやバシャールのメッセージに共鳴できるのは、おそらく、
「もしも…」という、私たちのいまこの瞬間の人生の選択について、選択しなかった、あるいはその自覚さえ持てずに過ぎてしまう時間の周辺に、無限の可能性があったはずだということを大いに想定できるからだ。
「今は、いま」であって、「いまこの現実しかなく」そして「もしも…」なんていう非リアルな世界は有り得ないないという方もいるだろう。私は、それをわざわざ否定するつもりはない。そんなことに関心もない。私は、あくまでも、私たちのこの「いま、この瞬間」とともに、選択されなかった、現実化されなかったシナリオの別次元の世界(人生ライン)があると思っているだけだ。
たが、私たちが体験しているのは、常にその現実化された物理的現実のみだ。そのため、私たちが瞬間瞬間に選択されなかった、あるいは現実化されなかった別次元の世界のことは、抽象的なために想像することはかなり難しい。
ヴァジム・ゼラんど氏の言うバリアントの空間とは、形而上学的な観念的な世界の話であり、所詮、抽象的な世界だ。この私たちが日々体験している物理的な現実に相関するもので、物理的な現実のシナリオ部分が、このバリアントの空間にあるものとしている。
「バリアントの空間には、各人にとっての運命ラインが無限に存在する。」
(「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」ヴァジム・ゼランド[著]
ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)
運命ラインとは、人生ラインのことで、各人がどのようになるかを定めたシナリオ(現実における状況や状態)と舞台装置(物理的現実)が、そのバリアントの空間にセクター化(細分化)されて用意されているというものだ。それが、無限にあるということだ。
普通は、そんなSFもどきな話を信じないだろう。だとしても、ごく普通の生き方で、それでいいのだと思う。
私は、なぜか、そういう概念を受け入れられてしまった。
その根拠にあるのが、
「もしも…」である。それは、過ぎ去った昔を思い「あの時が、分岐点だったかもしれない。もしあの時、その選択をしなかったら、違う人生になっていたかもしれない。」とか。誰にでもあるような、思いから出発している。もう少し具体的に言えば、
「あの一流大学に合格していたら、大手商社マンになれたかもしれないのに。合格しなかったから、苦労続きの生活をしている。」
「あの会社に、落ちてよかった。おかげで、苦労もしたが、いまは、ささやかな会社の社長にもなれたのだから、あのとき、希望の会社に入っていたら、せいぜい課長どまりだったかもしれない」など、いろんなありようの設定が、無限に考えられる。
これが、「もしも…」であり、その「もしも…」があって、ゼランド氏の言う、バリアントの空間についての概念も、比較的、違和感なく、受け入れられたのだ。
この物理的現実は、私たち各人にとっては、一つだと、ゼランド氏は言う。
ただ、私たちの関わりが、見方が、私たちの世界の層となって、現実化されるのだ。
私たちの関わりが、見方がというは、私たちの思いであり考え方だ。
その私たちの思考の放射のパラメーターが、バリアントの空間にあるセクターに収納されているシナリオにスポットを当て現実化するために作用するのだと説明している。これは、私のあくまでも現時点での理解なので、誤りもあるかもしれない。また理解度のさらなる進展によって、私の言い方も今後変わることは、否定しない。
個人的な理解度の限界だとしてお許し願いたい。
とはいえ、それでも、それなりに理解していると思っている。もちろん、
皆さんが、当該書籍によって直接理解されることが、望ましい。
バリアントの空間における人生ラインについて、もう少し説明をするなら、
この喩えが、分かりやすい。第2巻からの話の中からヒントをもとに、記述してみたい。
例えば、
バリアントの空間の、あるシナリオの一つは、こうだ。
一本の小道がある。田舎のとてものんびりした田園風景でも思い描いて頂ければいい。それは、物理的現実において、そのままの様子がいまシナリオどおりに、現実化されている。
だが、バリアントの空間に、そのシナリオから、すぐ隣ではなく、かなり離れたセクターのところに、全く同じ設定で、同じ一本の小道と、同じ田舎道があるとする。ただ一つの違いは、そのりんごの木が、りんごでなく、ミカンの木だとする。
だが、私たちの物理的現実において、それが現実化されていない世界を連想してほしい。
でも、バリアントの空間には、現実化されていないシナリオが用意されているのだ。
私が、そのミカンの木がなっている小道の現実化を選ぶことは、私がそれを望むように振る舞い、現実化することを選択するなら、私の世界の層においてそれは可能であり、許されているという考え方だ。
なんとSF的で、馬鹿馬鹿しいと思うのも自由だ。面白い考え方だとするのも自由だ。
私は、後者を選んでいる非科学的な立ち場の者だ。
数日前に、当ブログで、飛行機が飛ぶことの不思議について、私は書いた。
だが、飛行機が飛ぶということは、経験で知っているだけで、物理法則上の原理原則は、ただ何となく分かっているつもりでいるだけだ。やはり観念的には、鉄の塊が空をとぶなんてという多少の違和感は、誰でも持っていないだろうか。
それでも飛行機は空を飛ぶ。空を飛ぶどころか、月にロケットも飛んでいる。ライト兄弟以前のその時代の人々は、空を飛びたいと念願し思っていたかもしれないが、そんなことは、有り得ないこととして、現実の体験でそのように思い込んでいた。
その時代の人々は、空飛ぶマシーンを考えること自体が、馬鹿馬鹿しく、絵空事なのだ。
でも、100年余りが過ぎた現代においては、当たり前の現実なのだ。
私たちの思考の放射によるパラメーターに同調するパリアントの空間を選択するだけで、つまり人生ラインのシフトにより一本の小道に、りんごの木でなく、全く同じ設定の小道で、ミカンの木が物理的に現実化されたリアルな世界が現われるとしても、飛行機が飛ぶよりも、実は、そんなに理解に苦しむ話ではないと私は思っている。
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