かなりに前のことになるが、
どうみてもまともではないという意味でショッキングな映像を見たことがある。
その記憶が、割とはっきりしている。
何気なく観たので、どこの国かまで、注意が向いていなかった。
外国の酒場のようだった。店内の監視カメラの映像で、映像は鮮明ではなかったが。
それは、一人の酔客に同僚からラム酒を頭からかけられてじっと立っているシーンだった。
その悪ふざけの興が最高潮に達した時、まさかのことが起きた。
別の同僚らしき者が、
ついにライターで火を付けたのだ。
瞬く間に火が走り、頭が焼け、顔にまで火が及んで、
酔客は、大やけどを負ったという映像だった。
この出来事は、酔客の正気をとり戻そうと、本気で考え、
酒場内の恐らくちょっとした悪ふざけのつもりのようだった。
なんていうころだろう。
ちょっとした悪ふざけが過ぎましたで済む問題じゃない出来事だ。
日本人の場合に過失で、常套句に述べられるように。
酒のせいにするのは、そもそも最低だが。善悪の判断を失っていたのだろう。
火を被った酔客は、完全に人事不省だったらしいが、後で、
何が何やらまったく分からなかったと、感想を述べているという。
馬鹿らしいにもほどがある話だ。
だが、私たちが見る、あるいは体験している現実にも、大なり小なりの差はあるとしても、
質においてはレベルに、あまり差のない忌々しい事がよく起きているものだ。
例を挙げるまでもないだろう。今の目の前の現実に数多あるではないか。
だが、ちょっと待てよと思う。
これは、私の現実なのだ。私とは、筆者の私だけでなく、すべての「私」の現実だ。
少なくとも、この人生ライン上を意識下で望み踏襲し、体験しているすべての「私」だ。
私の現実は、文字通り、私の意識の中で起きている現実だ。
その認識と理解は難しい。
あまりにもすべてがリアルだからだ。
リアリティ・トランサーフィンのヴァジム・ゼランド氏の著著「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)に注目すると、
そこでプレゼンテーションされる概念は、実にユニークだ。
これまでの常識を打ち破った意表を突く概念を多数持ち込んでいるので、
どんな内容ということを、簡単に言うことができない。
「振り子」というものも、ゼランド氏の提示した概念のひとつで。
いろんな説明や言い方ができるので、かなり多様にもなる。
そこで、
もっとも分かりやすく、
簡単な「振り子」とは、についての説明を、以下にとりあえず委ねたい。
「同じ方向でものごとを考える人々の集まりは、『エネルギー情報体』を
形づくる。これを『振り子』と呼ぶ。」
(前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」より引用)
とある。つまり、同じ場で、同じその瞬間にその出来事とかかわりあうことが、
「同じ方向でものごとを考える」ということになるようだ。
具体的に「振り子」を形づくるものとは、
「例えば、家族、クラブ、学校、企業、政党、国家などである。これらすべての
構造は、人々のそれぞれの集まりが同じ方向で思考したり行動したりすると、
発生して成長し始める。」
(前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」より引用)
とある。
この説明で何か、分かったような気になるかもしれないが。
ただそう思うだけで、
実際は意味するところは、かなり深く、かなり広く、
私たちの腑に落ちる理解のためには、著書を読んでいただくほかない。
としても、一通り読んだだけでは、なかなか分かりづらいだろう。
ネットでも、トランサーフィンを扱ったブログやWebサイトの運営者の記述においても、
理解するために数回読んだようなメッセージも多い。
で、難解だとしても、指摘している概念は、非常に卓越している。
と同時に、通常の概念をあまりに越えているために意表を突れるのだ。
なぜ私が、いま「振り子」について書いたか。
ゼランド氏が最も強く言っていることだが、「振り子」に捕えられないようにしなければならないからだ。著者も言っているが、「振り子」にまったく捕えられないで生きることは、物理的現実においては、基本的に困難であり、できないとしている。多種多様な「振り子」だらけだからだ。
ただその影響下にあることを知って、その中で、よりベストにどう振舞うかは、
できるだろう。
特に、ゼランド氏が本の中で記述しているのは、、
「振り子」と闘ってはいけないというメッセージがよく目に付く。
所詮、勝てない相手ということや、それだけでなく、
「振り子」に力を与えるべく自分のエネルギーをすべて奪われてしまうからだ。
「振り子」の姿は、前述した分かりやすいものだけでなく、
むしろ前述の例は、ほんの一部であり、
例には挙げにくい無数の抽象レベルの現れ方をする思い込みや観念などの元だったりもする。
複雑に絡み合ったものだったりもする。
そこで、
「振り子」との向き合い方は、原則、淡々と無視するに限る。決して闘ってはいけないのだ。
「振り子」とは、最小単位は、個人ですらある。
例えば、路上を歩いているとしよう。
すると、車道を挟んだ向こうの歩道で、いま何やら大声で、
喚いている人物がいるとしよう。
政治的な発言か、文句を言っているようだが。わからない。実はこの話は実話で、私が、パートで仕事している駅の近くで、同じ人物により、月1ぐらいで、時折り起こる出来事なのだが。何か論理だてて喚いているのではなく、何を喚いているかさっぱりわからないのだ。
ただ、周りの人たちが、彼の傍には近寄らない。誰からも制止されることもなく、その誰かたちは、遠巻きに何もないかの如く通りすがっていく。
この人物は、極端な振り子だが、振り子の要素が極端に尖鋭化して現れた人物だといえる。
私たちの多くは、こんな人物には、そもそも警戒し近寄らない。文字通り無視をしている。
それでいい。私たちの多くは、一般的に言って、極端に振れ掛かっている振り子のエネルギーに支配された人物には、賢明な知恵が働き関わることがほとんどない。
このような人物のように極端に振れた分かりやすい場合は、良いのだが、一見、常識人に見えて、その実、さりげなく影で悪口や噂話などを言うようなネガティブな毒気を持つ者も少なからずいる。大なり小なり、それぞれの個人が、日常の中に、別の「振り子」を何らかの形で乗っ取ろうとして「振り子」のエネルギーが凌ぎを削って合っているようだ。
これらを踏まえて、
今回、トランサーフィンの著書の中で、私が最もお気に入りだった箇所を振り返った。
取り上げた箇所は、
冒頭に書いたように、忌々しいこと、そうあって欲しくないことについての記述があるからで。
記述によれば、忌々しいこと、そうあって欲しくないこととは、
「振り子」の現実がもたらしたものだ。
なぜ闘ってはいけないかについての記述がある。
「あなたがそうあって欲しくないものと積極的に闘おうとすることは、すなわち、
それがあなたの人生上で起こるよう、全力を尽くすことになる。
望んではいない人生ラインへ移るためには、何らかの行動を取らなければならない
というわけではない。」
(前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」より引用)
つまり、忌々しいと思うような出来事に心を煩わすことは、「振り子」に力を与え、自らは、
もっと、ロクでもないことばかりが起きる人生ラインへ、ズルズルと引き摺り込まれると言っているのだ。
それは、私たちが瞬間瞬間、あるいは毎瞬、毎瞬、放出している思考のパラメーター(ネガティブさ)の波動が、その思考の度合い(波長)に見合った人生ラインを引き寄せ(同調する)、
それに乗っかってしまうということを意味する。
ゼランド氏はさらに、私たちの理解を助けてくれる。
「普通、人々は外部からの刺激に紋切り型の反応をする。否定的なニュースは不満を、
物騒なニュースは不安や恐怖の反応を、そして侮辱は敵意などを引き起こす。」
(前出「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」より引用)
これは、冒頭に取り上げた酔客のような話や、私たちのいま日常で起きている様々なことで、
考えれば分かりやすいだろう。
こうした情報と出合い、ネガティブな反応を繰り返しているうちに、
私たちの人生ラインは、一層悪いものを引き寄せるラインへ滑り落ちることになる。
だから、
ゼランド氏は、一連の「振り子」との向き合い方は、原則、淡々と無視するに限るというのだ。
★戻る | ★前日の記事を読む
★過去リンク
夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/
夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/