ある日のこと。
自分のことで恐縮だが、その前日は、なぜか気が急いていた。
例えば、3階からエレベータに乗って、2階で足止めをくらう。
そこで、エレベータは一旦停止し、体格のいい若い男が、無遠慮に乗り込んで来る。
見知らぬ男だ。新聞配達か…。
一方で、何でこのタイミングで止まるかな…、しかも2階で…と、
「あー。階段で降りれば良かった」と思いながら、仕方なく、男の圧迫感のある背中に前方が塞がれながら不快になる。朝から出鼻をくじかれたようなややイライラした気分に陥る。
誰かにあたるようなことはしないが。若干のストレスを感じる。
「こんな日もあるよな…」と、自分で、自分の心のわだかまりと向き合い、
そのことを許すつもりで、そう解釈した。
いまふと、思い出した。ここ連日の天気の悪さから言うと、
まもなく、雷雨が…あるかもしれない。
そんな季節の変わり目の予兆か…と感じた。
昔に読んだので、どの作品ということまでの記憶はないが、
おそらく「白痴」だと思う…。
どの作品と限定するまでもなく、
ドストエフスキーの作品には、全体を通して、ある種、天候などの外的要因が
主人公なりの憂愁の気分を左右するというような描写があったことを思い出す。
天候一つとっても、何らかの因果を引き出す関わりがあるものと感じたりする。
ここまで記述して、
さらに、思い出したことがある。
25歳のとき、骨移植まですることになる激しい痛みを伴った病に
見舞われた日のことだ。
それは、日曜日のことで、実兄の夫婦が、私と母の暮らす実家に遊びに来ていた日だった。
いわゆる盆暮れの年に1-2度のことだが。
兄と酒を飲み、夕方、兄夫婦が帰ってからの後のことだ。
数時間後。なぜか、私の気持ちがやたらどうしようもなく不安定になった。
胸の奥で、何かが沸騰するのではというような焦燥感が沸き起こっていた。
それはかなり激しかった。
「これって、何だろう…」と思いつつ、
理由もわからず、制御できないイライラがはじまった。
すると今度は、
息が止まるのではというような思いの中で、激しい痛みが走った。
これまで体験したことのない激痛だった。
救急車が到着すると、急に、安心したのか痛みが嘘のようになくなった。
まったく痛くない、何ともないのだ。このまま救急車に乗っていいものか、
気恥ずかしくなるような感じだったが。
それでも、念のためということで、病院に行くことになった。
歩いて行けるのに、救急隊員の仕事上の役目だからということで、
オンブをしていただいた。申し訳ない気がした。
その後は、あのような痛みは、体験することはなかったが。
思っていたより、結果は、はるかに深刻だった。
結局、半年入院することになった。
そのことは、以前にこのブログに書かせていただいたとおりだ。
この予兆については、思うところがある。
ヴァジム・ゼランド氏が著書「[願望実現の法則]リアリティ・トランサーフィン2」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝正浩[訳]徳間書店)の中で言うところの、魂(潜在意識)の快・不快や、
「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス 吉田利子[訳] =SoftBank)の言うところの感情の素晴らしいナビゲーションシステムだ。
私は、以前それとは、気づかず。
潜在意識からの何かの予兆のメッセージを受け取っていたようだ。
もっとも、
その不機嫌は、特別に何か重大なものは含んでいなかったように感じているが。
自分なりに考えてみて、
いま何かしら望まないものを意識せずに考えている。
あるいは思いがそこにあるというような。偏在しているというような。
メッセージだったのかもしれないと。
それなら、よく分かる。きっと、それだろうとも思う。詳細は個人的なことなので、伏せるが。
話を元に戻すと、
その激痛により、比較的長期の入院に追い込まれた。前述したとおりだ。
その頃のことは、よく覚えている。
入院する前のことだが、大学を中退し、希望する映像関係への進路をとる方法が見出せずに失望していた。ただフラフラとそのまま映像とは無関係なファースト・フードの業界に
踏み込んでしまっていた。
そして9ヶ月が経っていたときのことだった。
そこに居るスタッフや仕事全体は、どう見ても、私の望む世界と異なる。
考え方も生き方も、まったく違う。
仕事には慣れていたし、スタッフともそれなりに調和を保っていたが。
しかし、自分にとって、どう見ても場違いなところに居るという思いばかりがしていていた。
といって、袋小路に追い込まれており、どうすることもできないと感じていた時でもある。
そのストレスが、足の激痛に結びついたと思っている。
ネガティブに言えば、足の激痛だが。
それは、ポジティブに言えば、
私自身が強く望む人生ラインへの軌道修正でもあった。
人生の筋書きのシフティングだ。
つまり、切り替えられた瞬間だったということをいま強く実感する。
人生のその不思議を改めて思うのだ。
私たちは、内なる魂の声のアウトプットに、もっとしっかり耳を澄ます必要がありそうだ。
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