彼女が帰った。
本当にホッとした。何においてもとりわけ金銭面で。
ホッとした。
私が所持していた金も、ほとんど底を尽きそうだった。
米のない米櫃の底を見るような思いだった。
わずかな金しかない。
一方で、
時代はインターネットが主流になりつつあった。
様々な企業が、時代の先端を行こうと、あるいは乗り遅れまいとして、
ホームページが雨後のタケノコのようにあちらこちらで立ち上がり、
ネットに溢れつつあった。
中には世代やターゲットを絞った提案型のサイトも、
増えていた。
そんな折、
激減しつつあった映像の撮影の仕事関係や身近な知り合いなどを通じて、
ホームページの制作などの仕事を請け負って、何とか細々と食いつないでいた。
また教育教材のネット通販も、知り合いの紹介で、始めていた。
これが、後に生活をある程度、支えてくれることとなった。
その売れ行きとともに、周りを見ると、かつて私が映像制作の会社に入った頃の、
同期の仲間たちや後輩たちが、独立をしていた。
小さな会社=ブティックプロ(プロダクション)を立ち上げて、
映像制作の会社で、そこそこ羽振りが良かった。
私たちは映像の世界では、スタッフとして裏方でも、
かなり個性が強かった。風貌や格好も、考え方も。
みな自己主張が強かった。
で、なければ、この映像の世界で、頑張っていくことはできない。
私は、そう思う。
特に、同期の同僚だった連中は、みな社長になっていた。
社長でなかったのは、個人事業者(フリーランス=社長)の私だけだった。
その彼らの成功がうらやましくもあった。
ただその彼らも、その後、数年で、分散し、
あるものは借金を抱えて、消滅してもいった。
私は、彼らの一時的な成功に触発を受けて、
私も法人を立ち上げてみようと決意したことがある。
上述した教材販売をメインに。
だが、毎年20%レベルの右肩上がりで、商品は売れていたが、
個人事業者の売上程度で、法人にするのは、あまりに無謀だった。
私が始めた一人法人は、税処理などでも、すべて一人でやるしかなった。
資本金0円で会社が作れるというような時の政権のスローガンのもとに、
やってみたが。まったく0円という訳にはいかない。
やはりそれなりに、ある程度のそこそこの金も必要だった。
また一人法人の大変さは、複式簿記による帳簿作成や決算書の作成。
さらに、税務署への確定申告などが必要になった。
これには、かなり経理の事が分かってないと、
仕事は、仕事でやり、営業面のことを考えたり、月末が近づくにしたがって、
資金の調達など苦しみ、さらに、経理関係までと、
すべてを一人でやるというのは、難しく困難で。事実上困難をかんじていた。
私には、無理だった。
私は、これほどまでに法人が大変だとは、やはり思わなかった。
見込みが恐ろしく甘すぎた。
固より税理士を頼める状況にはなかったので、
いつしかタイミングを見て、法人を辞める決心をしていた。
7年後(2011年春頃)、メーカーやその他のカード負債などもあり、
弁護士さんを通じて、借入金の返済方法等の計画案を作成してもらい和解した。
自己破産まではしなかったが。返済金が数年間続くという意味では、
むしろ毎日が苦しかった。それは、もう過去となり、すでに完済しことたが。
私の想いは、法人を立ち上げたというだけで、立ち行かなくなり、
結果、一人法人を畳んだ。ただ高い授業料を支払った。
彼女との出会いがあった頃、彼女が、帰国した頃、再来日した頃、
さらにその後など。
私の個人としての状況は、上述したように、別な面で、
私を追い込むように動いていた。
いま、それを運命のように感じる。