夢見心地☆深い穴 ★19#0153

夕闇 フィリピン-ピリピン

子どもの頃の記憶を辿ると、小学生の頃の記憶は、割にあるが、中学、高校、あるいはそれ以上になると、ほとんど印象的な断片の記憶しかない。しかもいくらもないという感じがする。
なぜだろう…。比較的新しい方の記憶が少ないというのは…。

その子ども時代には、まだ都会は、野原が多く、学校の裏手に、子どもたちが勝手に遊ぶ私有地などの野原があった。深い穴のタイトルで、私は、ふと子どもの頃、ひとつの仕掛けとして、落とし穴を造ったこと思い出した。よほど工作力の優れた道具が揃っていなければ、大仕掛けな落とし穴など作れない。

せめて30センチ四方のひざ下まで落ちれば、それで大成功というような悪ふざけが目的の落とし穴だ。それを何度か造ったことを思い出した。ほとんどが、未然にバレてしまうか。自分たちで、踏んで落ちてみせて、大笑いするというような戯言だった。

私たちがリアルに穴と出会うのは、そうした体験による。子どもたちの近所の冒険で、ちょっとした洞穴を見出すこともあるだろう。こんなところに。なんで…。
というような横穴を見出すことがあった。それで妄想が働き、本当は、何かしら工事途中のものだったりするのだが。

それについて、怖い生き物や化物がいるのではと、石を投げこんだりしたものだ。
私たちが体験する物理的な穴というのは、そのように基本的には、他愛のないものだ。

深い穴で思い出したが、映画「羊たちの沈黙」には、後半に恐ろしい深い穴が登場する。パラノイアの妄想によって犠牲となる女性を閉じ込める絶望的な穴だ。

ストーリーについては、語らないが。原作の精緻さは、現代版ドストエフスキーを思わせる描写で、心理サスペンスの展開と迫力がすごいことは言うまでもない。あの難しい内容を、原作にほぼ忠実に表現した映画の力量も凄かった。

若い検察官のジョディ・フォスターもよかった。
脇道へそれが、ついでに言っておこう。あのポスターもそうだったが。いまでも新潮社から出ている本のカバーには、あるサインが表示されている。

デザインが変わってなければの話だが、クラリス役のジョディ・フォスターの顔の口に大きな蝶が口を塞ぐように覆っている。そこにあるサブリミナルなサインが出ている。それは、原作を読んだものには、分かるが、もし書店に立ち寄ったら、見てみるといい。

そんな仕掛けがあったのかと思うだろう。それは、この小説や映画を観るモノへのちょっとした落とし穴だったのかもしれない。
少し、余談に走ったが。

この映画の中で、性的パラノイアに誘拐された議員の娘は、絶体絶命な絶望的な深い穴から、ラストシーンで、ついに抜け出すことになる。それは、映画を見て、小説を見て楽しんでいただきたい。私がそれをいう仕事ではないので。

私が深い穴をこのブログのタイトルにしたのも理由がある。
冒頭には、物理的な穴について語った。

そして、ここからは、私たちが陥りる可能性のある人生上にある挫折の深い穴について、
その絶望と思えるような状況の中にも、救いがあるのだということを、
トランサーフィンから得た学びとして伝えたかった。

トランサーフィンシリーズの第4巻「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)の中の引用だ。

   「あなたがどんなに深い穴にはまっていようとも、すべてを変える、
    それも劇的に変えることが可能だということを覚えておいて欲しい。
    それがどうやって行われるか、さっぱりわからなくても、まったく問題ない。
    具体的な打開策をあなたが知る必要はなく、それはひとりでに見つかるのだ。」

        (前出:第4巻 トランサーフィン p200より引用)

という記述がある。
トランサーフィンの基本的な概念は、バリアントの空間には現実化されることを待ち望む潜在的なシナリオが、無限数あるという。そしてそのバリアントの空間だが、バリアントの空間などという名称は、もちろん私たちの通常の認識の中にない。著者が仮説として命名しているだけだ。

私たちの潜在意識が、常にその空間を自由に飛び回っているとしている。私たちは、無意識にそのバリアントの空間のシナリオを現実化し体験している。
ほとんどの場合が、無意識にだ。

その無意識の状態が、実は、案外問題になるようだ。
スピリチュアルな立場に立つ者の中には、私たちの無意識は、基本的にはネガティブな状態に染まっているという意味のことを言っている者もいる。だとするなら、私たちは、そのネガティブな波動の状態で、バリアントの空間に向き合い。

私たちにとっては、忌々しい、望まないことが次から次へと展開されるようなシナリオを含んだセクターへと、私たちの心の状態が導かれてしまうのだとなる。

私たちがいま体験している現実を、泥沼のような深い穴だと思い続ける限り、通常、そこからは這い上がることはできない。しかし、前述で、ゼランド氏の引用をしたように、その地獄のような現実に嵌っていても、解決策があるのだと述べている。

それが、次に続く言葉だ。

   「あなたは状況にずっと支配されており、状況を変えることは不可能だと
    思っている。本当のところ、これは幻想であり、その気になりさえすれば
    簡単に壊すことができる見掛け倒しなのだ。
    実は、私たちは皆それとは意識せず同じところを堂々巡りしている。
    私たちはリアリティを観察し、態度を表明すると、鏡は態度の中身を
    リアリティに固定する。リアリティを変えるには、こんな堂々巡りから
    抜け出せば良いだけなのだ。」

        (前出:第4巻 トランサーフィン p200)

つまり、「リアリティを変えるには、こんな堂々巡りから抜け出せば良いだけなのだ。」と言っている。それは、どういうことか。

いま物理的な現実を目の前にして、その状況について、
それをそのまま観たまま、感じてたままを評価しないことだと言っている。

なぜなら、物理的な現実は、私たちの内面を3Dの物理的触覚さえある鏡の世界に映し出しているということだからだ。その現実を観て、再評価すれば、する度に、堂々巡りのスパイラルになると述べている。どうすればよいのか。

 「欲しないことや避けたいことを考えず、望むことを達成したいことを考えることだ。」
        (前出:第4巻 トランサーフィン p200)

と、ゼランド氏は述べている。
蛇足になるが、欲しない(こと)=(現実)や避けたい(こと)=(現実)で、
望む(こと)=(現実)だ。

再度、聖書からの言葉を引用しよう。
かの偉大なる師の言葉だ。

   「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、
    そのとおりになるだろう。」

   (マルコの福音書 第11章 24節 /「ザ・マスター・キー」
      チャールズ・F・ハアネル[著] 菅 靖彦[訳] 河出書房)より引用))

この言葉は、真実の言葉なのだ。
「非科学的な時代のお話あるいは逸話、物語など」で済ませて良いというような
伝承の言葉ではないのだ。

真実の言葉なのだ。



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夢見についての気づき 2020年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/yumemi/1084/

夢見についての気づき 2019年版 Index(古い順より)
https://isle23ch.com/philippines-pilipin/2798/

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