このブログのテーマからは、少しズレているかもしれないが、以前からどうしても、私は何かの折にぜひ声を挙げたい。あるいは書いておきたいことがあった。その理由は、そのお話をしていただいた方からの熱い思いと、それを聞いたものとしての使命だと思っているので。
それを本日、書かせていただきたい。
多くの方にとっては、つまらない話かもしれない。今日のブログは、
それならと、うっちゃっていただいても結構だ。
ただ、それでも読んでいただける方が居られたら、ぜひ読んでいただきたい。
きっと、あなたの心に何かを残すだろうから。
ちょっと、婉曲な話をさせていただきたい。私は、ストレートに言えない性分なので。
お許し願いたい。
昨日、羽田空港のロビーで、御年を召したご婦人から、声をかけられた。
「すいません。」
振り向くと、品のあるご婦人だが、これ以上、歩くのは辛いらしく、ロビーの椅子の背に手をかけ身体をささえながら、眼には困惑を漂わせて、やっとの思いで、私に
「あのぉー!向こうで杖を突いて歩いている人に、そっちじゃない。こっちだと伝えていただけませんか。」と言われた。
何のことかと、その向こうを見たが、意味がわからなかった。ちょうど、私の少し前を3人の女性が横に並んで歩いており、”杖を突いてる人”というが、この女性たちの一人がたまたま、傘のようなものを持っていて、その女性のことを言っているのかと、一瞬、迷い聞き返した。
もう一度、「向こうを歩いている…」という言葉で、さらにその向こうを見ると、高齢のこのご婦人のどうも連れ合いの方らしき人の小さな背が見えた。
よそよそしい表現だったが、”旦那さんのことらしい…”と、ようやく理解した。
そこで、急いで、その方を追いかけた。
追いかけたというには、少し大げさな言い方だったが、すぐに追いついた。
歩みが遅いので。
「旦那さん!」と、声をかけ、肘の辺りを軽く叩いて促した。
「何事だと言うように」少しこわばった表情で、こちらを見た。
「あの、こちらでは、ないそうですよ。奥さんが…。」
それで、すぐに、合点がいったようだった。踵を返しながら、私に礼を述べた。
歩みが遅いというより、歩行困難という方が正しいかもしれない。
歩いてはいるのだが、歩幅がない。10cm程度だ。
足の裏、半分ずつをくらいを摺足で、歩き、ヨチヨチと言う感じだった。
「大丈夫ですか…」と声を掛けたが、それに対する返事はなかった。
私は、向こうで待つ、奥さんに駈け寄り、やはり、
「大丈夫ですか?車を借りた方が」と尋ねた。
共に、歩行が厳しかったのだ。
そのご婦人からも、礼を述べられたが、何もできない自分が、申し訳なく、
私は、やりきれない思いで、
その後、二人の様子を目で追っていた。心配だったのだ。
しばらく二人のことを考えた。良くも悪くも長く連れ添った二人だ。
年齢から推察して50年近く一緒なのだろう。そしてお互いが老い、いまその老い中で、自己たらんとしている。胸にこみ上げるものが、時々あった。
私が、この話を前段に持ってきたのは、理由があり本題のことを効果的に伝えたいためである。
かなり以前のことになるが、私がフリーで映像のディレクターをやるようになってしばらくたっての頃の話だ。
ある家電大手の社員教育用のVIDEOの制作を担当したときだ。打ち合わせで横浜にある研修センターにご挨拶にいった。そこの所長さんから伺った話だ。
基本的な打ち合わせが済み、所長さんと雑談をしていた。どういう経緯で、その話なったか覚えていないが。
「呼称について」その所長さんが述べられた。
趣旨としては、世間一般で、「おじいちゃん」「おばあちゃん」という言い方があるが、
あれは、やめるべきだと、物静かだが、深い情愛と思想の上にたって
語っておられたように感じ拝聴した。
「自分が遠からず、高齢者になるから余計にそう思うのかもしれないが…。」と前置きし、
「世間では、よく、特にTVなどで、”おじちゃん、大丈夫ですか。””おばあちゃん、お体を大切に”などと、やたら言ってるでしょう。一見、親しみを込めて言ってるようだが。何も問題なさそうに思うが、あれは、ああした”呼称”は、やめるべきだと思う。
今の時代は、年配になり、高齢になった方も、多くの方が、それなりに高い水準の教育もあり、受けていたりする。自我意識が強いのだ。誇りを持った人が多い。自分の孫や子に血縁の中で、身内から”おじいちゃん””おばあちゃん”と呼ばれるのは、うれしいだろう。だが、第3者から、そう呼ばれるのは、決して喜ばしくない。
ましてや、自分を自分で年寄りだと考えているものは、案外少ないものなんだ。」と言うお話だった。
多くの方はどう思うか分からないが、そんなつまらない話というのも、ひとつの見識だ。
私は、それでも良いと思っている。
私はその話を聞いて、賛意できた。雑談での話しとは言え、ひとつの見識を感じて、その後、その所長さんのお話は、ずっと、胸に暖めてきた。深い人権思想に裏打ちされた言葉だと感じている。
実際に、TVなどを見ていると、やたら、”おじいちゃん””おばあちゃん”を連呼する。
「自分が歳を取っていることを、そう思っていない人に、そう決めつけるなんて。誰も好きで歳とったわけじゃないのに。いづれ、そういうあんたも歳を取るのだよ。」と思いつつ、その言葉がほんとに親しみが込められた言葉なのか、考えたほうが良いと思わされる。あまりの軽薄さに不快にさえなる。
すでに日本は高齢者社会に突入している。この”おじいちゃん””おばあちゃん”を連呼するその先には、「あんたは、年寄りだ。」「年寄りは邪魔だ。」「黙ってろ!」というように、年寄りを排他的に扱う危険のある思想が深い部分で根ざしていることを自覚しないといけない。
高齢者であっても、個人だ。身体が若い時のように自由にならないだけで、自覚と誇りのある個人なのだ。
私は、高齢者に声をかける時に、”おじいちゃん””おばあちゃん”などとは、絶対に言わない。知らない方であれば、「もし」「あの~」「すみません。」「旦那さん」「ご主人」で、良いと思う。知っている方であれば、名前を呼ぶべきだと。
だから、私は、冒頭の話の中でも、「旦那さん」と声を掛けた。
私は、あの頑迷にトットと、しかし亀の歩みのようにのろい、だが向こうへ行く旦那さんを
遠くで心配そうに見つめるご婦人のせつない顔を今も思い出す。
そしてご自身も老い受け止め、自由が利かず、自身で旦那さんに促すことができずに、
仕方なく、私に声を掛けた。
そのときの表情を、生涯忘れることはないだろう。
それまでの人生の意味をすべて込めた深い顔立ちを。
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