何年か前の私自身の古いデータの備忘録からの記事をあえて紹介したい。
その記事は、次のようにはじまった。
☆ ☆ ☆
皆さんは、リンゴが空へと落下する、
文字通り、不思議なことが起きたニュース(話題)に気づいただろうか。
私は、「あッ、来た!これだ!」と、ある意味、興奮した。
リンゴが空へと落下するとは、トランサーフィンの第4巻、
「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著]
ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)のサブタイトル(副題)だ。
そして、
このとんでもなく馬鹿げたようなサブタイトルは、実は、大真面目なもので。
トランサーフィンならではの、概念の結果としてあるものだ。
ここには、その奇妙さの裏に実にリアルな意味を含んでいる。
そして、”だけ”でなく、象徴的な意味をも当然含んでいるのだ。
リアルなものを含んでいるとは、
どう言う意味なんだという疑問を持つ方には、文字通り、
その意味だという答え方しかできない。
そして、もうひとつの象徴的な意味というのは、
たまたま起きたニュース(話題)がそれをズバリ表しているのだ。
私は、ある駅構内のニュース電光掲示板にふと気づいた。そこに、
「しずちゃん 戦わずして金」というタイトルが、思わず見入ってしまったのだ。
その電光ニュースに掲載されていた写真は、ネットでも、一時期、掲載されていた。
話を元にもどすが。
私の頭を、「戦わずして金」という言葉が、すごい~!勢いでグルグル駆け巡った。
まず、どうしてそうなったのか、
電光掲示板をかなり遠見で観たので、よくわからなかった。
後でネットで詳細を知ることができるだろうと、それ自体、
つまりプロセス(その方法という意味で)はあまり重視していなかった。
ただ、私は、願望実現というものが、ある日、こんなカタチで起きたのだなと思った。
そうした道理以前の大きく飛躍したことが、やはり起きるのだなと思った。
「それ」とは、”リンゴが空へと落下する”というものだ。
覚えている方も多いと思うが。
そのニュースのあらましは、次の通りだ。
お笑いコンビの南海キャンディーズのしずちゃんこと山崎静代さんが、
アマチュアボクシングの全日本女子選手権で、相手選手の不出場により優勝したのだ。
つまり不戦勝した。全く、戦わずして、勝った!
その理由が常識的にはあまりに馬鹿げている。
報道によれば、
大会運営者が、1時間早まった集合時間を山崎陣営側に伝えきれて居なかったようで、
しずちゃんがなかなか現れない。
そこで、相手選手が、不戦勝と錯覚したようだ。
しかし、大会関係者が、そのミスに気づいたということか、
急きょ呼ばれた山崎静代さんが計量に間に合い出場が認められると、
一転、今度は、相手選手が動揺し、その時点で戦う気力(緊張感)が失せしまったようだ。
すでに気持ちが切れて号泣し、なんと、
相手選手が、欠場したという。あまりにお粗末な話だった。
結局、相手選手が試合に欠場してしまったため、
遅れてやって来た、
しずちゃんの不戦勝になった。
固より女性として、重い階級であるため出場者が少ない上。
しずちゃんを入れて、2名の参加しかなかったため、
予選がなく、事実上の決勝戦となっていたのだ。
そして、大会側の連絡ミスで遅れて登場した、
しずちゃんが、一切戦わず、そのまま不戦勝したということらしい。
巷間伝えられるその話がどこまでが、事実なのかは、
報道の限りで分からないが。
”事実は、小説より奇なり”の事例となった。
私は、「お粗末」とか、「馬鹿げた」と、あえて書いたが、決して、
皮肉や悪意を述べたかった訳ではない。バカにしてやろうという意図も一切ない。
とりあえず、誰もが、そう感じるであろう表現を、
一般的な反応としてありそうなという意味で、
都合上、使わせていただいただけだ。
私が、このブログで、この話を取り上げた以上は、
「お粗末」とか「馬鹿げた」ということで処理したいのではなく。
むしろ、そのようなことが、いわゆる目に見えない力によって「起きた」のだという思いで、
関心を寄せている。関心を持ったということだ。
しずちゃんの心の深い部分までは、全く、分からないが。
この件に関して、私は、彼女が戦わずして勝てる人生ラインを無意識(潜在意識)が、
選択していたのではないだろうかと思っている。それは、悪いことではない。
しかし、私が思うのは、
この一見、変わった顛末は、しずちゃんの思いが、自らの意思で、
勝ちたい気持ちが、結果として、創造的に働いたものだと思っている。
本人も、まったく予想もしない方法で、自ら負荷を背負うことすらなく。
結果を出した。
私たちは、このしずちゃんの不戦勝から、学ぶべきことが、
実にたくさんあると思っている。
気づいてほしい。
少なくとも、汗を流してだとか、一生懸命だとか。苦しい思いをしてだとか。
それに類することは、本来、人生ラインにとっては、まったく、それは、どうでもよくて。
またそうしなければ価値がない、美しくないなどと思うのは、
実は、その概念に、ただ、ただひたすら捉われている制限だらけの理性が
勝手にそう思っているにすぎないということだ。
さらに言えば、
そうして汗水を流して、努力をして、勝ち取ったことが「善」なのだという誤った思い込み。
それは、そう思い込まされている理性だけが一面的なパターンに縛られているのだとは、
気づいていない。
苦労して、苦労して、さらに苦労して、それが素晴らしいことだと錯覚しているのだ。
そうでなければ、勝利者や成功者ではないという価値観さえ抱いている。
それは、とんでもない誤りなのに…。
その考え方は、ただ、ど根性が好きで、耽美主義の自虐者で、
どうにも使い勝手の悪いスポ根・ガチガチの石頭な考えを
する者の世界観なのだ。
楽して成功していいという考え方ができないのは、
自ら課している意味のない罪悪感によって、自らを制限し、
自らを束縛しているということには、まるで気づけないだけなのだ。
私たちは、すべてを見直す必要がある。
はっきり言おう。私たちの人生は、そう遠回りを由とするほど、
実は、思うほど寿命は長くはない。
私たちは、制限だらけの考え方に、決して捉われてはならないのだ。
誤った偏狭な価値観から、棚からぼた餅的な出来事を悪く思ってはいけない。
むしろ喜ぶべきだ。
しずちゃんのこのニュースは、いろんな受けとめ方がされただろう。
としても、これまでの制限だらけの価値観に一切、縛られず、
私たちは、まったく理性で想像も付かない無限数ある人生ラインを、選択可能だということを改めて再認識すべきだろう。
☆ ☆ ☆
という内容の記事だった。
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