「成功するために失敗の数を増やせ!」と、逆説的に、勇気を与えてくれてアドバイスするのは、ジェフ・ケラー氏だ。
著作「いつもうまくいく人の成功法則」(弓場 隆[訳] ソフトバンク文庫)の巻末の項目で、
述べられている。
その中で、
「史上最高のバスケットボール選手の名前をあげるとすれば、
あなたは誰を思い浮かべるだろうか?おそらく多くの人がすぐに
マイケル・ジョーダンを思い浮かべるだろう。私もそうだ。」
と言い。そのマイケル・ジョーダンの実績を紹介している。
「では、こんな統計を紹介しよう。マイケル・ジョーダンの生涯得点率は5割。
言い換えれば、彼がプロとして放ったシュートの半分は失敗に終わったことになる。」
と、指摘だ。
こうした例は、野球選手の打撃についてもよく言われることだ。
3割打てれば、一流選手というように。7割は打ててないか、打てても、有効打にならず塁に進むことができなかったことを意味している。
このことは、失敗を重ねなければ、成功はないということも意味している。
岩に染み入る水滴が、落ちてはじけて、いづれ大きな穴をあけることも、よく知られている。
そのためには、永い年月を要している。
だが、注目すべきは、水滴は、一発で、穴をあけたわけではないという事。そして、明確な事実があることだ。それは、毎回、実は、失敗しているという事だ。
岩に落ちて、岩を砕くよりも前に、自らが分散し飛び散っている。
しかしここに大いなる教訓がある。
いかに水滴のように微小で軽量であっても、頻繁な落下と反復により、永い年月で、岩でさえ打ち砕かれるのだというその明確な実証として、自然が私たちに範を示してくれている点だ。
やや説教くさい話で、意に反しているので、お詫びする。
私が20代後半の頃だったと思う。ある映像の制作プロダクションに勤めていて、撮影現場の場数の経験もそこそこに積み、現場を仕切るという責任と自信を持って臨んでいた頃の話だ。
ある夏の終わりだったのだろう。その印象が強すぎて、時期は明確ではない。
ただ、やたら激しい嵐の夜だった。
その頃の私は、ほぼ毎晩のようにタクシーで、仕事とそのあとの飲み会もあって夜遅く帰っていた。そんなデタラメナ生活をしていた。その頃の一夜だ。
そのタクシーの中の体験を述べたい。
会社は、隅田川沿いにあった。「新大橋通りをまっすぐ、海岸通りへ抜けて品川方向へ南下してください。」というのが、当時、私が、タクシー運転手に指示する手順だった。経験から知ったことだが。明確に指示してあげた方が、運転手もありがたいのだ。
後で、客から運賃料金のトラブルや何やかやと言いがかりをつけられやすいので。
「お客様、あなたの指示通りに従いましたよ。」という方が、
運転する側からの方便が立つからだ。
その日は、かつて経験したことのないほど雨で。その雨足がタクシーのフロントガラスをバシバシと叩きつけていた。
前方はほとんど見えない。ワイパーもあってないようなものだ。常にバケツの水をフロントガラスに浴びせるような。しかも夜で暗く、視界がほとんどない。対向車の明かりがぼんやり見える程度だった。
後部座席に乗っていた私は、ひどく怖かった。さぞかし、運転する側は、もっと怖いだろうと思ってたずねると、ちっとも恐れていなかった。彼は、「自分は元暴走族で、こんなのどってことないですよ」と嘯いていた。
いま思えば、その場で、運転手に恐れられたら、それも「運転、大丈夫ですか?」となるので、ある意味、正しい態度だったのだろう。しかし、スピード狂なのか。こんな激しい視界のほとんどない雨の中、やたらスピードを出す。ちっとも落とすそぶりさえ見せない。
車道のアスファルトの轍には、水が溜まり、そこへ突っ込むと、その激しい水を巻き上げ、自動車の中の室内の平穏さと違い、外はエライことになっている。時折、この車体が滑っているようにも感じた。起伏のある橋の前後では、車体が飛ぶ。
まるで罰ゲームのようで、私は、「ほんとに怖かった。」、
それでも、どうにか。私にとって、どうにか無事に帰宅できた。その運転手に感謝している。
多分、この人、ほんとうに元暴走族上がりなのだろうなと確信した。
良い意味で、過去の実績が役立ったね。と内心で、感じさせてくれた場面だ。
私は、この日のことを想う。
この激しい雨に日の暗い車道は、特に私という限定でなく、ほとんどの私たちの人生そのものかもと。文学的・演劇的に言うなら困難さを象徴していると感じている。
バケツをひっくり返したように雨が打ちつけるフロンドガラスとワイパー。
これが、人生上にたびたび起こる思いがけない困難という名の出来事の象徴とワイパーはそれを払いのけようとする抵抗や対応だ。車体と運転手は「私」の意思の実行者だ。私は、「私」だ。
私は、帰りたいという目的を運転手に告げている。目的は明確なのだ。
だが、激しい雨の中の夜道は、その目的を何度も打ち砕こうとして、時には、何か事故などの危険なことは、起きないだろうかと、常に私を不安にしていた。私と運転手のやり取りは、ある意味、心の葛藤を象徴しているようなものだと思う。
フロンドガラスに何度も叩きつける激しい雨、困難に対して、ワイパーは、乗り越えようとして何度も無力に失敗している、刹那的な動作に終始し、結局、視界を充分確保できないのだから。
前述した岩に落ちる水滴の思いと同じだ。
だが、揺れ動く私の気持ちに、帰りたいという気持ちが継続している限りにおいて、
結局、私は、無事、帰宅できた。
それは、目的が明確だったからだ。
私の注文を受けた運転手と車体は、その意思から、それ以上のものになってくれていたのかも。
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